九重(ここのえ)部屋の過去から現在までの主な所属力士をご紹介する九重部屋の大相撲力士まとめ!
この記事では九重部屋の主な関取を中心に紹介していきます。過去の力士については最高位や改名歴、初土俵や各段の昇進時期と最終場所、さらに生涯戦歴と生涯勝率、成績等を中心にご紹介していきます。また、現役力士については最高位と昇進時期、主な成績などを載せています。
なお、年寄名跡欄の
現役の九重部屋力士の最新番付や成績、詳細なデータをご覧になりたい方はこちら
5月場所千秋楽の取組結果はこちら。
5月場所の各段の成績順はこちらで確認ができます。
相撲部屋や出身地ごとの成績から、場所中はリアルタイムでランキングを作成しております。今場所好調な相撲部屋や力士の出身地はどこ?
- 一門
- :高砂一門
- 創設
- :昭和42年(1967年)1月31日
- 創設者
- :第11代・九重 雅信 (元横綱・千代ノ山 雅信)
- 現師匠
- :第14代・九重 龍二 (元大関・千代大海 龍二)
- 所在地
- :東京都葛飾区奥戸1-21-14 📍地図
- サイト
- : 公式サイト / X(Twitter)
この記事の目次
九重部屋の優勝力士
優勝制度が制定された明治42年(1909)6月場所以降、現在の九重部屋からは4人の幕内最高優勝力士が誕生しています。
九重部屋の初優勝はいつで誰?
九重部屋の初優勝力士は、昭和42年(1967)3月場所で東大関だった北の冨士(北の富士)です。
九重部屋の優勝力士一覧
では、歴代の九重部屋の幕内優勝力士を年月順で一覧表にして見てみましょう。
| № | 四股名 | 優勝場所 | 回数 | 優勝時の番付 | 出身 | 部屋 | 最高位 | 成績 | 四股名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 北の冨士 | 昭和42年3月 | 初 | 東大関 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 14勝1敗 | 北の冨士 | 出羽海部屋からの移籍後初の本場所を、自身初の幕内優勝で飾った |
| 2 | 北の富士 | 昭和44年11月 | 2回目 | 西大関 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 13勝2敗 | 北の富士 | |
| 3 | 北の富士 | 昭和45年1月 | 3回目 | 東大関 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 13勝2敗 | 北の富士 | 場所後に玉乃島と共に横綱へと昇進 |
| 4 | 北の富士 | 昭和45年5月 | 4回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 14勝1敗 | 北の富士 | |
| 5 | 北の富士 | 昭和45年7月 | 5回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 13勝2敗 | 北の富士 | |
| 6 | 北の富士 | 昭和46年5月 | 6回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 15勝0敗 | 北の富士 | |
| 7 | 北の富士 | 昭和46年9月 | 7回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 15勝0敗 | 北の富士 | |
| 8 | 北の富士 | 昭和46年11月 | 8回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 13勝2敗 | 北の富士 | |
| 9 | 北の富士 | 昭和47年9月 | 9回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 15勝0敗 | 北の富士 | 3度目の全勝優勝 |
| 10 | 北の富士 | 昭和48年3月 | 10回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 52代横綱 | 14勝1敗 | 北の富士 | |
| 11 | 千代の富士 | 昭和56年1月 | 初 | 東関脇 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | 千秋楽本割は北の湖に敗れたが優勝決定戦では見事破り、 自身初の幕内優勝を遂げた。優勝決定の瞬間視聴率65.3%は大相撲中継歴代最高記録 |
| 12 | 千代の富士 | 昭和56年7月 | 2回目 | 東大関 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 13 | 千代の富士 | 昭和56年11月 | 3回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 12勝3敗 | 千代の富士 | |
| 14 | 千代の富士 | 昭和57年3月 | 4回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 13勝2敗 | 千代の富士 | |
| 15 | 千代の富士 | 昭和57年5月 | 5回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 13勝2敗 | 千代の富士 | |
| 16 | 千代の富士 | 昭和57年7月 | 6回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 12勝3敗 | 千代の富士 | |
| 17 | 千代の富士 | 昭和57年11月 | 7回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 18 | 千代の富士 | 昭和58年3月 | 8回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 15勝0敗 | 千代の富士 | 千代の富士、初の全勝優勝 |
| 19 | 千代の富士 | 昭和58年11月 | 9回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 20 | 千代の富士 | 昭和59年11月 | 10回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | 千代の富士、10回目の優勝 |
| 21 | 千代の富士 | 昭和60年1月 | 11回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 15勝0敗 | 千代の富士 | |
| 22 | 千代の富士 | 昭和60年5月 | 12回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 23 | 千代の富士 | 昭和60年9月 | 13回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 15勝0敗 | 千代の富士 | |
| 24 | 千代の富士 | 昭和60年11月 | 14回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 25 | 千代の富士 | 昭和61年1月 | 15回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 13勝2敗 | 千代の富士 | |
| 26 | 保志 | 昭和61年3月 | 初 | 西関脇 | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 13勝2敗 | 保志 | のちに北勝海へと改名 |
| 27 | 千代の富士 | 昭和61年5月 | 16回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 13勝2敗 | 千代の富士 | |
| 28 | 千代の富士 | 昭和61年7月 | 17回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 29 | 千代の富士 | 昭和61年9月 | 18回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 30 | 千代の富士 | 昭和61年11月 | 19回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 13勝2敗 | 千代の富士 | |
| 31 | 千代の富士 | 昭和62年1月 | 20回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 12勝3敗 | 千代の富士 | 千代の富士、20回目の優勝 5連覇を達成(1986年5月場所から) |
| 32 | 北勝海 | 昭和62年3月 | 2回目 | 西大関 | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 12勝3敗 | 北勝海 | 10場所連続、九重部屋力士が幕内優勝 (1985年9月場所から) |
| 33 | 千代の富士 | 昭和62年7月 | 21回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 34 | 北勝海 | 昭和62年9月 | 3回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 14勝1敗 | 北勝海 | 北勝海、横綱昇進後初の優勝 |
| 35 | 千代の富士 | 昭和62年11月 | 22回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 15勝0敗 | 千代の富士 | |
| 36 | 千代の富士 | 昭和63年5月 | 23回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 37 | 千代の富士 | 昭和63年7月 | 24回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 15勝0敗 | 千代の富士 | 千代の富士、5度目の全勝優勝 |
| 38 | 千代の富士 | 昭和63年9月 | 25回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 15勝0敗 | 千代の富士 | |
| 39 | 千代の富士 | 昭和63年11月 | 26回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | 千秋楽、大乃国に敗れるまで53連勝 |
| 40 | 北勝海 | 平成元年1月 | 4回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 14勝1敗 | 北勝海 | 平成初の優勝 |
| 41 | 千代の富士 | 平成元年3月 | 27回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | |
| 42 | 北勝海 | 平成元年5月 | 5回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 13勝2敗 | 北勝海 | |
| 43 | 千代の富士 | 平成元年7月 | 28回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 12勝3敗 | 千代の富士 | |
| 44 | 千代の富士 | 平成元年9月 | 29回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 15勝0敗 | 千代の富士 | 千代の富士、7度目の全勝優勝 |
| 45 | 千代の富士 | 平成2年1月 | 30回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 14勝1敗 | 千代の富士 | 千代の富士、30回目の優勝 |
| 46 | 北勝海 | 平成2年3月 | 6回目 | 西横綱 | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 13勝2敗 | 北勝海 | |
| 47 | 北勝海 | 平成2年9月 | 7回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 14勝1敗 | 北勝海 | |
| 48 | 千代の富士 | 平成2年11月 | 31回目 | 東横綱(張出) | 北海道 | 九重 | 58代横綱 | 13勝2敗 | 千代の富士 | 千代の富士、現役最後となる31回目の優勝(歴代3位) |
| 49 | 北勝海 | 平成3年3月 | 8回目 | 東横綱 | 北海道 | 九重 | 61代横綱 | 13勝2敗 | 北勝海 | |
| 50 | 千代大海 | 平成11年1月 | 初 | 東関脇 | 大分県 | 九重 | 関脇 | 13勝2敗 | 千代大海 | |
| 51 | 千代大海 | 平成14年7月 | 2回目 | 西大関 | 大分県 | 九重 | 大関 | 14勝1敗 | 千代大海 | |
| 52 | 千代大海 | 平成15年3月 | 3回目 | 東大関2 | 大分県 | 九重 | 大関 | 12勝3敗 | 千代大海 |
九重部屋の優勝力士ランキング
次は九重部屋力士の優勝回数と成績のランキングです。
| 順位 | 四股名 | 優勝 | 最高位 | 出身地 | 勝数 | 敗数 | 横綱 | 大関 | 関脇 | 小結 | 前頭 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1位 | 千代の富士 | 31回 | 58代横綱 | 北海道 | 427勝 | 38敗 | 29回 | 1回 | 1回 | 0回 | 0回 |
| 2位 | 北の富士 | 10回 | 52代横綱 | 北海道 | 139勝 | 11敗 | 7回 | 3回 | 0回 | 0回 | 0回 |
| 3位 | 北勝海 | 8回 | 61代横綱 | 北海道 | 106勝 | 14敗 | 6回 | 1回 | 1回 | 0回 | 0回 |
| 4位 | 千代大海 | 3回 | 関脇 | 大分県 | 39勝 | 6敗 | 0回 | 2回 | 1回 | 0回 | 0回 |
九重部屋の歴代師匠
第11代・九重 雅信 (元横綱・千代ノ山)
千代の山 雅信 (ちよのやま まさのぶ)は北海道松前郡出身、出羽海部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和17年(1942)1月場所に15歳7ヶ月で初土俵を踏み、昭和34年(1959)1月場所を最後に引退(32歳7ヶ月)。
通算成績は403勝158敗147休2分557出場。生涯勝率.724。通算54場所中、39場所を勝ち越した(勝ち越し率.750)。
主な成績は幕内優勝6回(次点6)、十両優勝2回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、金星3個(羽黒山1個、照國1個、田山1個)。
本名は杉村 昌治。大正15年(1926)6月2日生まれ。昭和52年(1977)10月29日逝去(享年51歳)。
部屋の継承を巡って耐え忍んだが出羽海一門からの破門を条件に独立、大関だった北の富士らを連れて九重部屋を興す。
- 四股名
- 千代の山 雅信 (ちよのやま まさのぶ)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 11代九重 雅信(出羽海) → 11代九重 雅信
- 出身地
- 北海道松前郡
- 本名
- 杉村 昌治
- 生年月日
- 大正15年(1926)6月2日
- 没年月日
- 昭和52年(1977)10月29日(享年51歳)
- 所属部屋
- 出羽海部屋
- 改名歴
- 杉村 昌治 → 千代ノ山 昌治 → 千代ノ山 雅信 → 千代の山 雅信
- 初土俵
- 昭和17年(1942)1月 本中(15歳7ヶ月)
- 新十両
- 昭和19年(1944)11月(所要6場所)
- 18歳5ヶ月(初土俵から2年10ヶ月)
- 新入幕
- 昭和20年(1945)11月(所要8場所)
- 19歳5ヶ月(初土俵から3年10ヶ月)
- 新関脇
- 昭和22年(1947)6月(所要10場所)
- 21歳0ヶ月(初土俵から5年5ヶ月)
- 新大関
- 昭和24年(1949)10月(所要16場所)
- 23歳4ヶ月(初土俵から7年9ヶ月)
- 新横綱
- 昭和26年(1951)9月(所要22場所)
- 25歳3ヶ月(初土俵から9年8ヶ月)
- 最終場所
- 昭和34年(1959)1月場所(32歳7ヶ月)
- 大相撲歴
- 54場所(17年0ヶ月)
- 通算成績
- 403勝158敗147休2分557出場(勝率.724)
- 通算54場所
- 勝ち越し39場所(勝ち越し率.750)(勝ち越し星257)
- 優勝等
- 幕内優勝6回(次点6),十両優勝2回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,金星3個(羽黒山1個、照國1個、田山1個)
- 持給金
- 404円50銭(勝ち越し星257個 優勝6回 金星3個)
- 横綱戦歴
- 239勝103敗137休1分337出場(勝率.709)
- 在位32場所(在位率.593)
- 勝ち越し21場所(勝ち越し率.656)
- 大関戦歴
- 67勝23敗0休90出場(勝率.744)
- 在位6場所(在位率.111)
- 勝ち越し6場所(勝ち越し率1.000)
- 幕内戦歴
- 366勝149敗147休2分511出場(勝率.716)
- 在位46場所(在位率.852)
- 勝ち越し33場所(勝ち越し率.717)
- 三役戦歴
- 24勝14敗10休1分39出場(勝率.615)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率.500)
- 関脇戦歴
- 24勝14敗10休1分39出場(勝率.615)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率.500)
- 前頭戦歴
- 36勝9敗0休45出場(勝率.800)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率1.000)
- 十両戦歴
- 14勝3敗0休17出場(勝率.824)
- 在位2場所(在位率.037)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 関取戦歴
- 380勝152敗147休2分528出場(勝率.720)
- 在位48場所(在位率.889)
- 勝ち越し35場所(勝ち越し率.729)
- 幕下以下歴
- 23勝6敗0休29出場(勝率.793)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率1.000)
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:突き出し(75回 / 20.3%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(56回 / 37.6%)
- ✅ 得意な相手:若葉山(11勝0敗 / 勝率1.000)
- ✅ 苦手な相手:鏡里(8勝15敗 / 勝率.348)
第12代・九重 勝昭 (元横綱・北の富士)
北の富士 勝昭 (きたのふじ かつあき)は北海道旭川市出身、出羽海 → 九重部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和32年(1957)1月場所に14歳9ヶ月で初土俵を踏み、昭和49年(1974)7月場所を最後に引退(32歳3ヶ月)。
通算成績は784勝426敗69休1205出場。生涯勝率.651。通算105場所中、74場所を勝ち越した(勝ち越し率.718)。
主な成績は幕内優勝10回(同点1 次点3)、十両優勝1回、三段目(同点1)、殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回、金星1個(大鵬1個)。
本名は竹沢 勝昭。昭和17年(1942)3月28日生まれ。令和6年(2024)11月12日逝去(享年82歳)。
長身の美男子として人気を集め、左四つからのキレのある速攻相撲で大相撲ファンを魅了した第52代横綱である。玉の海と共に「北玉時代」と呼ばれる一時代を築き、引退後は九重親方として千代の富士と北勝海の2人の横綱を育て上げた。相撲協会退職後もNHKの大相撲中継で歯に衣着せぬ解説で長く愛された、昭和から令和にかけて相撲界を輝かせ続けた大輪の華であった。
船酔いと猛稽古の下積み時代
北海道網走郡美幌町に生まれ、留萌市で育つ。幼少期から野球少年であり、中学時代は軟式野球の主力投手として活躍していた。相撲との出会いは、北海道巡業に訪れていた当時の横綱・千代の山(のちの11代九重)から「相撲をやって東京見物をしないか?」と直々に声をかけられたことがきっかけである。この言葉で角界への興味を抱き、中学校卒業と同時に名門・出羽海部屋の門を叩いた。
しかし、上京時の青函連絡船で酷い船酔いに見舞われて体重が激減し、新弟子検査で体重不足として不合格になってしまう。特例である「自費養成力士」として辛くも前相撲に進み、昭和32年(1957年)1月場所に本名の「竹沢」で初土俵を踏んだ。細身であったため出世は遅れ、「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業」という規約に抵触しかけるほど下積みが長引いた。
昭和34年(1959年)5月場所でようやく三段目に昇進し、四股名を「竹美山」へ改名。しかし、同年の夏巡業中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発してしまう。50日間もの入院生活を余儀なくされ、一度は力士を辞めることも考えた。それでも、後援者の勧めで四股名を「北の冨士」と改めてからは心機一転し、本来の素質を開花させていく。
十両全勝優勝と新入幕での活躍
地道に番付を上げ、昭和38年(1963年)3月場所で念願の新十両昇進を果たし、ついに関取の座を掴んだ。関取となってからは持ち前の相撲が冴え渡り、同年11月場所では十両で史上3人目となる15戦全勝優勝を達成する。翌昭和39年(1964年)1月場所の新入幕では13勝2敗を挙げ、新入幕力士としての最多勝新記録を打ち立てて敢闘賞を受賞した。
予期せぬドタバタの大関昇進
翌3月場所で一気に新小結へと昇進、同年7月場所で新関脇へと昇進し、その取り口は「スピード相撲」と称された。「腰高を直すか、スピードをつけるか」と問われた際に自らスピードを選び抜いた結果であり、立合いのかち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げや外掛けを交えた躍動感ある相撲を武器とした。勢いに乗ると手がつけられない強さを見せる反面、守勢に回ると無謀な首投げや二丁投げを打ってかえって体勢を崩す脆さも併せ持っていたが、その華麗でスピーディーな取り口は大いにファンを沸かせた。
こうして三役と平幕を往復しながらも地力を蓄え、昭和41年(1966年)7月場所後、大関昇進を果たす。しかし、昇進直前3場所の成績が合計28勝17敗であり、当時の基準でも「まさか大関に昇進するとは思っていなかった」ため、本人は伝達式の朝も熟睡していた。部屋の床山に叩き起こされて初めて事態を把握したが、本来立ち会うべき師匠(8代出羽海夫妻)すらも昇進を想定しておらず、外出して留守であった。そのため、急遽兄弟子の佐田の山が師匠代理を務めるという異例の事態となり、何の準備もしていなかった北の冨士は、慌てて佐田の山から紋付きを、足のサイズが同じだった伊勢ノ海部屋の柏戸からは足袋を借りて急場を凌ぎ、伝達式に臨んだ。
破門と独立、そして初優勝
大関として順調に土俵を務めていた昭和42年(1967年)1月場所後、相撲人生を揺るがす大きな転機が訪れる。恩師である11代九重(千代の山)が、常陸山以来の「分家独立不許」という厳しい不文律に悩みながらも、出羽海部屋からの分家独立を申し出ていたのである。「角界入りのきっかけを作ってくれた九重か、育ててくれた出羽海か」。大きな恩義の板挟みとなり深く思い悩んだが、最終的に九重と行動を共にすることを選んだ。弟子13名中10名までを連れての独立は許されたものの、弟子もろとも出羽海一門からは破門され、高砂一門へ移籍するという苦渋の決断であった。独立当初は経営も苦しく、九重と布団を譲り合う時期もあったという。
こうして、高砂一門に合流して迎えた同年3月場所、北の冨士は土俵上で恩返しを果たす。かつての兄弟子であった横綱・佐田の山を破る活躍を見せ、14勝1敗で悲願の幕内初優勝を飾ったのである。
しかし、初の綱取りがかかった翌5月場所は緊張と稽古不足から5勝10敗と大きく負け越し、翌場所も7勝8敗と2場所連続で負け越してしまう。当時は3場所連続負け越しで角番だったため、初の大関角番で迎えた昭和42年(1967年)9月場所は心機一転、四股名をうかんむりの「北の富士」に改めて臨み、10勝5敗で終えてなんとか角番を脱した。
「北玉時代」と親友の急死
大の稽古嫌いで知られていたが、入門前に1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた恩人が余命幾許もない状況となり、その恩人から「お前が綱を張ることを信じている」と激励されたことで発奮し、人が変わったように猛稽古に打ち込むようになる。良きライバルである片男波部屋の玉乃島(のちの横綱・玉の海)と切磋琢磨し、昭和45年(1970年)1月場所後に横綱審議委員会を経て、玉の海と共に同時に横綱へと推挙された。大関在位21場所での横綱昇進は当時の最長記録であった。
同時昇進した両者は激しく覇を競い合い、大相撲史に輝く「北玉時代」を築き上げた。土俵外では「北さん」「島ちゃん」と呼び合う親友であり、横綱会の余興では玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を披露するなど、新時代の横綱像を見せた。しかし、昭和46年(1971年)10月、玉の海が虫垂炎手術後の急性冠症候群により突然この世を去る。巡業先で訃報を聞いた北の富士は人目をはばからず号泣し、翌11月場所で優勝を果たした際には、パレードを後回しにして玉の海の四十九日法要へ駆けつけた。
不眠症休場と現役引退
一人横綱となってからは、貴ノ花(初代)との取組で「つき手か、かばい手か」「勇み足か」と、二場所連続して同じ顔合わせで立行司が差し違えるという、大相撲史に残る取組をみせるなど孤軍奮闘を繰り広げた。
一方で、極度のスランプに陥った昭和47年(1972年)5月場所では、身体に怪我がないため医師に「最近寝付きが悪い」と答えて「不眠症」の診断書をもらい途中休場。さらに休場中にハワイ旅行をしていたことが発覚して厳重注意を受けるなど、豪放磊落な一面も見せた。
その後も復活優勝を果たすなど健在ぶりを示したが、次第に右膝などの怪我が重なり、昭和49年(1974年)7月場所の2日目に敗れた直後、「体力の限界」を理由に引退を表明した。引退会見では、過去の不眠症の逸話にかけるように「昨夜はよく眠れましたよ。きょうから相撲がないので思い切り飲んだ」と笑ってみせたが、報道を見て引退を自覚したその夜は、本当に眠れなかったという。
名伯楽、そして名解説者として
引退後は13代井筒を襲名し、プレハブ小屋に若い力士たちと枕を並べて寝泊まりし部屋を興した。時にはちゃんこ代にも事欠き、マネージャーと近くの中川でハゼを釣り、天ぷら丼にして腹をすかせた弟子たちに食べさせるなど、愛情と苦労を重ねて部屋を切り盛りした。その甲斐あって部屋創設から2年で弟子は20人程度に増え、関取予備軍も順調に育った。昭和52年(1977年)に11代九重が没すると、自身の部屋と合同させる形で九重部屋を継承。弟弟子であった千代の富士と、直弟子の北勝海を昭和の大横綱へと育て上げた。その指導法は「ガミガミ言わず、反発心を起こさせてやる気を引き出すコツを知っている」と千代の富士から高く評価されている。
平成10年(1998年)、相撲協会の理事選を巡る派閥争いの末に日本相撲協会を退職。その後はNHK大相撲中継の専属解説者となり、愛のある辛口と軽妙洒脱な語り口で絶大な人気を博した。還暦を迎えた際には、協会を退職していたので国技館は使えなかったが、都内のホテルで千代の富士と北勝海を従えて還暦土俵入りを披露している。
平成28年(2016年)に千代の富士が61歳で急逝した際には、「何でだろうねえ、強い順番で逝っちゃうんだ…」と深いショックを隠せず、「これは、もう若いも何も…千代の富士本人が一番悔しいでしょう」と悲痛な追悼のコメントを残した。
自身は横綱経験者の最長寿記録(83歳)の更新に意欲を見せていたが、令和5年(2023年)春から体調を崩して解説を休業。令和6年(2024年)11月12日、東京都内の病院で82歳の華やかな生涯を閉じた。棺には、解説者としての誇りである原稿用紙とボールペン、そして愛用した国語辞典が納められたという。
同年12月18日、八角部屋にて「北の富士さんをしのぶ会」が営まれた。式典内で、直弟子である八角理事長(元横綱・北勝海)は「本日は親方と呼ばせていただきます」と語り始めると、目頭をおさえて声を詰まらせながら「14歳で親方に出会えたこと、そのお陰で今の私があります」と、恩師への深い感謝と別れの言葉を捧げた。
- 四股名
- 北の富士 勝昭 (きたのふじ かつあき)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 13代井筒 勝昭(九重) → 13代井筒 勝昭 → 12代九重 勝昭 → 18代陣幕 純樹(九重) → 18代陣幕 純樹(八角) → 18代陣幕 克昭(八角)
- 出身地
- 北海道旭川市
- 本名
- 竹沢 勝昭
- 生年月日
- 昭和17年(1942)3月28日
- 没年月日
- 令和6年(2024)11月12日(享年82歳)
- 所属部屋
- 出羽海 → 九重部屋
- 改名歴
- 竹沢 勝昭 → 竹美山 勝明 → 北の冨士 勝明 → 北の富士 勝明 → 北の富士 洋行 → 北の富士 勝昭 → 北の富士 勝晃 → 北の富士 勝昭
- 初土俵
- 昭和32年(1957)1月 前相撲(14歳9ヶ月)
- 新十両
- 昭和38年(1963)3月(所要36場所)
- 20歳11ヶ月(初土俵から6年2ヶ月)
- 新入幕
- 昭和39年(1964)1月(所要41場所)
- 21歳9ヶ月(初土俵から7年0ヶ月)
- 新小結
- 昭和39年(1964)3月(所要42場所)
- 21歳11ヶ月(初土俵から7年2ヶ月)
- 新関脇
- 昭和39年(1964)7月(所要44場所)
- 22歳3ヶ月(初土俵から7年6ヶ月)
- 新大関
- 昭和41年(1966)9月(所要57場所)
- 24歳5ヶ月(初土俵から9年8ヶ月)
- 新横綱
- 昭和45年(1970)3月(所要78場所)
- 27歳11ヶ月(初土俵から13年2ヶ月)
- 最終場所
- 昭和49年(1974)7月場所(32歳3ヶ月)
- 大相撲歴
- 105場所(17年6ヶ月)
- 通算成績
- 784勝426敗69休1205出場(勝率.651)
- 通算105場所
- 勝ち越し74場所(勝ち越し率.718)(勝ち越し星425)
- 優勝等
- 幕内優勝10回(同点1 次点3),十両優勝1回,三段目(同点1)
- 受賞・金星
- 殊勲賞2回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個(大鵬1個)
- 持給金
- 599円50銭(勝ち越し星425個 優勝10回 金星1個)
- 横綱戦歴
- 247勝84敗62休326出場(勝率.758)
- 在位27場所(在位率.257)
- 勝ち越し20場所(勝ち越し率.741)
- 大関戦歴
- 208勝107敗0休315出場(勝率.660)
- 在位21場所(在位率.200)
- 勝ち越し19場所(勝ち越し率.905)
- 幕内戦歴
- 592勝294敗62休881出場(勝率.672)
- 在位64場所(在位率.610)
- 勝ち越し52場所(勝ち越し率.812)
- 三役戦歴
- 89勝76敗0休165出場(勝率.539)
- 在位11場所(在位率.105)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.727)
- 関脇戦歴
- 75勝60敗0休135出場(勝率.556)
- 在位9場所(在位率.086)
- 勝ち越し7場所(勝ち越し率.778)
- 小結戦歴
- 14勝16敗0休30出場(勝率.467)
- 在位2場所(在位率.019)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.500)
- 前頭戦歴
- 48勝27敗0休75出場(勝率.640)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率1.000)
- 十両戦歴
- 49勝26敗0休75出場(勝率.653)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 関取戦歴
- 641勝320敗62休956出場(勝率.671)
- 在位69場所(在位率.657)
- 勝ち越し56場所(勝ち越し率.812)
- 幕下以下歴
- 143勝106敗7休249出場(勝率.574)
- 在位34場所(在位率.324)
- 勝ち越し18場所(勝ち越し率.529)
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(151回 / 23.4%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(69回 / 21.4%)
- ✅ 得意な相手:清國(39勝15敗 / 勝率.722)
- ✅ 苦手な相手:大鵬(5勝26敗 / 勝率.161)
第13代・九重 貢 (元横綱・千代の富士)
千代の富士 貢 (ちよのふじ みつぐ)は北海道松前郡福島町出身、九重部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和45年(1970)9月場所に15歳3ヶ月で初土俵を踏み、平成3年(1991)5月場所を最後に引退(35歳11ヶ月)。
通算成績は1045勝437敗170休1473出場。生涯勝率.709。通算125場所中、96場所を勝ち越した(勝ち越し率.774)。
主な成績は幕内優勝31回(次点11)、幕下優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回、金星3個(重ノ海2個、若乃花1個)。
本名は秋元 貢。昭和30年(1955)6月1日生まれ。平成28年(2016)7月31日逝去(享年61歳)。
幕内最高優勝31回、通算勝星1045勝、53連勝など数々の大記録を打ち立て、昭和から平成にかけて相撲界に一時代を築いた第58代横綱である。引き締まった肉体と精悍な顔立ちから「ウルフ」の愛称で親しまれ、大相撲界で初となる国民栄誉賞を受賞した。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いたが、一直線にのぼりつめたエリートではなく、新入幕後に幕下陥落を経験した苦労人でもある。
麻酔切れの手術と飛行機への憧れ
北海道松前郡福島町に生まれ、幼少期から漁師である父親の手伝いをして自然に足腰を鍛え上げた。抜群の運動神経を持ち、中学時代は走り高跳びや三段跳びで松前郡大会で優勝するなど、「オリンピック選手にもなれる」と評されるほどであったが、本人は相撲が大嫌いであった。
転機となったのは中学1年生の時である。盲腸炎の手術を受けた際、腹の筋肉が厚すぎて手術が長引き、途中で麻酔が切れてしまったが、それに必死に耐える姿を見た病院長の紹介により、11代九重(元横綱・千代の山)から直々の勧誘を受けることとなった。当初は本人も両親も猛反対して断ったが、「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでもやってみて、後のことを考えたらどうだ?」と熱心に誘い続ける11代九重の言葉に、どうしても飛行機に乗りたかった貢は入門を決意する。
上京して九重部屋を訪れた際、まだ現役であった横綱・北の富士(のちの12代九重)と対面している。当時について12代九重は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった」と振り返っている。
昭和45年(1970年)9月場所、中学3年生にして本名の「秋元」で初土俵を踏んだ。翌11月場所で序ノ口につき「大秋元」と改名。昭和46年(1971年)1月場所に序二段へ昇進すると、11代九重の四股名である「千代の山」と、同部屋の先輩横綱「北の富士」から一文字ずつを取って「千代の冨士(のちに千代の富士)」と命名された。師匠からそれだけの大器と見込まれての四股名であった。
脱臼との闘いと「筋肉の鎧」
幕下時代までは、類い稀な運動神経を生かした力任せの強引な投げ技を多用していた。小兵ながら気性の激しさを見せる取り口で順調に出世し、昭和49年(1974年)11月場所には19歳5ヶ月にして新十両へ昇進、四股名をうかんむりの「千代の富士」に改めた。この頃、ちゃんこ番として魚を捌いている姿を見た11代九重から「狼みたいだな」と言われ、以降「ウルフ」という異名が定着していく。
昭和50年(1975年)9月場所では、昭和30年代生まれの力士として第1号となる新入幕を果たす。しかし、強引な投げ技は先天的に関節のかみ合わせが浅かった左肩へ大きな負担をかけており、この頃から「肩の脱臼癖」という致命的な弱点が顕在化し始めた。相撲の粗さもあって幕下へ陥落するなど、入幕前後の時期にかけて公式戦だけで7回、部屋での稽古も含めれば10回を超える脱臼を繰り返し、2年間の十両生活を強いられることとなる。
昭和52年(1977年)10月に11代九重が逝去し、12代九重(北の富士)が部屋を継承する。新師匠から「脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲」を徹底的に叩き込まれたことで脱臼は幾分治まり、昭和53年(1978年)1月場所に再入幕を果たした。同年5月場所には大関・貴ノ花を会心の相撲で破って9勝を挙げ、初の三賞となる敢闘賞を受賞。同年7月場所には新小結へと昇進した。
しかし、幕内定着が見えてきた昭和54年(1979年)3月場所で右肩を脱臼し、全治1年〜2年という重大な怪我を負ってしまう。診察で「肩関節の臼が左右とも普通の人の3分の2しかない」ことが判明し、医師から「手術をせずに2ヶ月で治したいなら、筋力トレーニングを行って肩の周辺を筋肉で固めなさい」との助言を受けた。これを機に、1日500回の腕立て伏せやウエイトトレーニングをいち早く導入し、「筋肉の鎧」を身に纏うことで肩を保護する画期的な怪我防止策を見出した。
同年5月場所は西十両2枚目へ下がり、公傷制度を利用して治療に専念する予定であったが、担当親方の書類提出忘れという不手際により公傷が認められない事態となる。休場し続ければ幕下陥落の危機であったため、3日目から強行出場して9勝を挙げ、同年7月場所での幕内復帰を掴み取った。以降は、肩の脱臼を防ぐため「前廻しを取ってからの一気の寄り」という新しい形を完成させ、昭和55年(1980年)3月場所からは幕内上位に定着した。
ウルフフィーバーと大横綱への道
昭和55年(1980年)9月場所には小結の地位で横綱・北の湖の連勝を24で止め、初の2桁勝利(10勝)を記録。翌11月場所で新関脇に昇進し、11勝4敗の好成績を挙げて大関昇進の機運を高めた。
昭和56年(1981年)1月場所、西関脇の地位で初日から14連勝の快進撃を見せる。千秋楽の本割で北の湖に敗れて全勝優勝は逃したものの、直後の優勝決定戦において、本割で吊り出された際に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて立てた作戦が見事に的中し、右からの上手出し投げで北の湖を下して待望の幕内初優勝を果たした。この瞬間のテレビ最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている。土俵下の審判委員として控えていた師匠の12代九重も「初優勝した時は、姿を見て涙が出ましたから」と回顧するほど劇的な勝利であり、場所後に大関へと昇進した。
大関昇進後も勢いは止まらず、同年7月場所では千秋楽で再び北の湖を破り、14勝1敗で2度目の優勝を飾った。7年間横綱に君臨していた北の湖を破って賜杯を手にしたこの一番は「覇者交代の一番」と位置付けられており、場所後の横綱審議委員会では満場一致で推挙され、第58代横綱への昇進を果たす。この年は関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を打ち立て、その精悍なルックスと豪快な相撲から「ウルフフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。
53連勝と国民栄誉賞
横綱昇進後は圧倒的な強さで賜杯を重ね、数々の大記録を打ち立てていく。体格で上回る相手に対し、凄まじい集中力と研究熱心さで挑んだ。本場所で負けた相手には自ら出向いて稽古し、攻略法を身につけた。「横綱になったら勝った相撲は新聞に載せてもらえない。それなら勝っても取り上げてもらえるような相撲を取ろう」という思いから編み出された、相手の頭を抑えつけるような強烈な上手投げは「ウルフスペシャル」と称され、ファンを熱狂させた。また、横綱土俵入りは四股が非常に美しく、上げた足が頭より高い位置に達するなど、類い稀な運動能力と几帳面な礼儀作法を土俵上で体現し続けた。
昭和63年(1988年)5月場所の7日目から同年11月場所の14日目にかけては、昭和以降において双葉山に次ぐ歴代2位となる53連勝を記録した。平成元年(1989年)9月場所では、通算勝ち星で大鵬を抜いて歴代単独1位(当時)となる通算873勝目を達成し、相撲界で初となる国民栄誉賞を授与された。30代半ばを迎えてもなお第一線で君臨し続け、幾度も綱の権威を示した。
引退と名門・九重部屋の継承
平成2年(1990年)11月場所には史上初の通算1000勝を達成し、結果的に最後となる31度目の幕内最高優勝を飾った。しかし、肉体はすでに限界に近づいていた。平成3年(1991年)1月場所の初日に幕内通算805勝(当時単独1位)を達成するも、翌日に左腕を負傷して途中休場し、翌場所も全休を余儀なくされる。
復帰を懸けた同年5月場所、初日に当時18歳の新鋭・貴花田(のちの横綱・貴乃花)と対戦するが、まわしを取れず寄り切りで敗れた。続く2日目の板井戦には勝利したものの納得のいく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだが、とったりを受けて完敗を喫した。その日の夜に緊急記者会見を開き、「体力の限界、気力もなくなり引退することになりました」との言葉を残して現役引退を表明した。横綱昇進の夜、師匠から「辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言われたその言葉通りの、潔い幕引きであった。
引退にあたり相撲協会からは一代年寄を打診されたが、「部屋を一代限りで終えたくない」とこれを辞退。年寄・陣幕を襲名し、平成4年(1992年)には12代九重と名跡を交換する形で13代九重を襲名して九重部屋を継承した。師匠として大関・千代大海など多くの関取を育成し、日本相撲協会の理事としても多方面で手腕を振るった。
平成27年(2015年)5月31日には、両国国技館にて現役横綱を従えて還暦土俵入りを行った。しかしこの頃からがんによる闘病生活が始まり、平成28年(2016年)7月31日、膵臓がんのため61歳で逝去した。弔問に訪れた前師匠の北の富士は「穏やかな表情だった。千代の富士とは縁もあって、横綱になってくれて先代に面目が立った」と、不世出の大横綱の死を悼んだ。
- 四股名
- 千代の富士 貢 (ちよのふじ みつぐ)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 17代陣幕 貢(九重) → 13代九重 貢
- 出身地
- 北海道松前郡福島町
- 本名
- 秋元 貢
- 生年月日
- 昭和30年(1955)6月1日
- 没年月日
- 平成28年(2016)7月31日(享年61歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 秋元 貢 → 大秋元 貢 → 千代の冨士 貢 → 千代の富士 貢
- 初土俵
- 昭和45年(1970)9月 前相撲(15歳3ヶ月)
- 新十両
- 昭和49年(1974)11月(所要25場所)
- 19歳5ヶ月(初土俵から4年2ヶ月)
- 新入幕
- 昭和50年(1975)9月(所要30場所)
- 20歳3ヶ月(初土俵から5年0ヶ月)
- 新小結
- 昭和53年(1978)7月(所要47場所)
- 23歳1ヶ月(初土俵から7年10ヶ月)
- 新関脇
- 昭和55年(1980)11月(所要61場所)
- 25歳5ヶ月(初土俵から10年2ヶ月)
- 新大関
- 昭和56年(1981)3月(所要63場所)
- 25歳9ヶ月(初土俵から10年6ヶ月)
- 新横綱
- 昭和56年(1981)9月(所要66場所)
- 26歳3ヶ月(初土俵から11年0ヶ月)
- 最終場所
- 平成3年(1991)5月場所(35歳11ヶ月)
- 大相撲歴
- 125場所(20年8ヶ月)
- 通算成績
- 1045勝437敗170休1473出場(勝率.709)
- 通算125場所
- 勝ち越し96場所(勝ち越し率.774)(勝ち越し星670)
- 優勝等
- 幕内優勝31回(次点11),幕下優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞5回,金星3個(重ノ海2個、若乃花1個)
- 持給金
- 1450円(勝ち越し星670個 優勝31回 金星3個)
- 横綱戦歴
- 625勝112敗148休730出場(勝率.856)
- 在位59場所(在位率.472)
- 勝ち越し49場所(勝ち越し率.831)
- 大関戦歴
- 38勝7敗0休45出場(勝率.844)
- 在位3場所(在位率.024)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率1.000)
- 幕内戦歴
- 807勝253敗155休1052出場(勝率.767)
- 在位81場所(在位率.648)
- 勝ち越し64場所(勝ち越し率.790)
- 三役戦歴
- 46勝29敗0休75出場(勝率.613)
- 在位5場所(在位率.040)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.600)
- 関脇戦歴
- 25勝5敗0休30出場(勝率.833)
- 在位2場所(在位率.016)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 小結戦歴
- 21勝24敗0休45出場(勝率.467)
- 在位3場所(在位率.024)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.333)
- 前頭戦歴
- 98勝105敗7休202出場(勝率.485)
- 在位14場所(在位率.112)
- 勝ち越し9場所(勝ち越し率.643)
- 十両戦歴
- 130勝120敗5休249出場(勝率.522)
- 在位17場所(在位率.136)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.706)
- 関取戦歴
- 937勝373敗160休1301出場(勝率.720)
- 在位98場所(在位率.784)
- 勝ち越し76場所(勝ち越し率.776)
- 幕下以下歴
- 108勝64敗10休172出場(勝率.628)
- 在位26場所(在位率.208)
- 勝ち越し20場所(勝ち越し率.769)
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(392回 / 41.4%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(131回 / 35.0%)
- ✅ 得意な相手:巨砲(37勝4敗 / 勝率.902)
- ✅ 苦手な相手:北の湖(6勝12敗 / 勝率.333)
第14代・九重 龍二 (元大関・千代大海)
千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ)は大分県大分市出身、九重部屋の元力士で、最高位は大関。
平成4年(1992)11月場所に16歳6ヶ月で初土俵を踏み、平成22年(2010)1月場所を最後に引退(33歳8ヶ月)。
通算成績は771勝528敗115休1288出場。生涯勝率.594。通算104場所中、76場所を勝ち越した(勝ち越し率.738)。
主な成績は幕内優勝3回(同点1,次点6),十両優勝2回,三段目優勝1回,序ノ口優勝1回。殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個(貴乃花1個)。
昭和51年(1976)4月29日生まれ。本名は須藤 龍二。
13代九重(千代の富士)が育てた初の幕内力士、入幕9場所目の初優勝で大関に昇進。大関在位65場所は魁皇と共に歴代1位。千代の富士の急逝によって九重部屋を継承。
- 年寄名跡
14代・九重 龍二 - 四股名
- 千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ)
- 最高位
- 大関
- 年寄名跡
- 20代佐ノ山 龍二 →
14代九重 龍二 - 出身地
- 大分県大分市
- 本名
- 廣嶋 龍二→須藤 龍二
- 生年月日
- 昭和51年(1976)4月29日(50歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 廣嶋 龍二 → 千代大海 龍二
- 初土俵
- 平成4年(1992)11月 前相撲(16歳6ヶ月)
- 新十両
- 平成7年(1995)7月(所要16場所)
- 19歳2ヶ月(初土俵から2年8ヶ月)
- 新入幕
- 平成9年(1997)9月(所要29場所)
- 21歳4ヶ月(初土俵から4年10ヶ月)
- 新小結
- 平成10年(1998)5月(所要33場所)
- 22歳0ヶ月(初土俵から5年6ヶ月)
- 新関脇
- 平成10年(1998)7月(所要34場所)
- 22歳2ヶ月(初土俵から5年8ヶ月)
- 新大関
- 平成11年(1999)3月(所要38場所)
- 22歳10ヶ月(初土俵から6年4ヶ月)
- 最終場所
- 平成22年(2010)1月(33歳8ヶ月)
- 大相撲歴
- 104場所(17年2ヶ月)
- 通算成績
- 771勝528敗115休1288出場(勝率.594)
- 通算104場所
- 勝ち越し76場所(勝ち越し率.738)(勝ち越し星324)
- 優勝等
- 幕内優勝3回(同点1,次点6),十両優勝2回,三段目優勝1回,序ノ口優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個
- 持給金
- 286円(勝ち越し星324個 優勝3回 金星1個)
- 幕内戦歴
- 597勝402敗115休988出場(勝率.598)
- 在位75場所(在位率.721)
- 勝ち越し54場所(勝ち越し率.720)
- 大関戦歴
- 515勝345敗115休850出場(勝率.599)
- 在位65場所(在位率.625)
- 勝ち越し46場所(勝ち越し率.708)
- 三役戦歴
- 51勝28敗0休78出場(勝率.646)
- 在位6場所(在位率.058)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率.833)
- 関脇戦歴
- 43勝21敗0休63出場(勝率.672)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 小結戦歴
- 8勝7敗0休15出場(勝率.533)
- 在位1場所(在位率.010)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率1.000)
- 前頭戦歴
- 31勝29敗0休60出場(勝率.517)
- 在位4場所(在位率.038)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.750)
- 十両戦歴
- 104勝91敗0休195出場(勝率.533)
- 在位13場所(在位率.125)
- 勝ち越し10場所(勝ち越し率.769)
- 関取戦歴
- 701勝493敗115休1183出場(勝率.587)
- 在位88場所(在位率.846)
- 勝ち越し64場所(勝ち越し率.727)
- 幕下以下歴
- 70勝35敗0休105出場(勝率.667)
- 在位15場所(在位率.144)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.800)
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