栃乃和歌 清隆
栃乃和歌 清隆 (とちのわか きよたか)は和歌山県海草郡下津町出身、春日野部屋の元力士で、最高位は関脇。
昭和60年(1985)3月場所に22歳9ヶ月で初土俵を踏み、平成11年(1999)7月場所を最後に引退(37歳1ヶ月)。
通算成績は588勝621敗24休1207出場。生涯勝率.487。通算87場所中、48場所を勝ち越した(勝ち越し率.552)。
主な成績は幕内(次点1)、十両優勝1回、幕下優勝1回、殊勲賞2回、敢闘賞3回、技能賞1回、金星4個(大乃国1個、北勝海2個、貴乃花1個)。
昭和37年(1962)5月22日生まれ。本名は綛田 清隆。
強靭な右四つの型と師匠直伝の基礎を武器に大相撲の土俵で長く活躍し、最高位は関脇まで昇進した。幕内連続在位76場所という足跡を残し、引退後は歴代横綱が率いてきた名門・春日野部屋を継承。自身の経験を生かした厳格な指導で後進を育て上げている。
野球少年からの転向と角界入り
幼少期から野球に打ち込み、中学時代にはその規格外の長打力が強豪・箕島高校野球部監督であった尾藤 公氏の目に留まり、昭和53年(1978年)に同校へ進学した。しかし、体重の増加や新入部員が多数いた事情もあり、監督の勧めを受けて相撲へ転向する。
卒業後は明治大学へと進学し、団体戦の全国大会で優勝するなど活躍を見せた。一方で、学生横綱などの大きな個人タイトルを獲得できなかった悔しさもあり、大学時代に出稽古で縁のあった春日野部屋への入門を決意する。昭和60年(1985年)3月場所、本名の「綛田(かせだ)」を四股名とし、幕下60枚目格付出で初土俵を踏んだ。
師匠の指導と相撲スタイルの確立
角界入り後は順調に勝ち星を重ね、昭和61年(1986年)9月場所で新十両へ昇進。これを機に四股名を「栃乃和歌」へと改名した。当時の師匠である9代春日野(元横綱・栃錦)は、元来四つ相撲専門であった栃乃和歌に対し、地力をつけさせる目的で徹底的に突き押しを教え込んだ。
その成果は着実に表れ、昭和62年(1987年)1月場所の新入幕を経て、同年3月場所では10勝を挙げて初の三賞となる敢闘賞を受賞。さらに同年7月場所では、2日目に自身より100キロ近く重い小錦を諸差しからの寄り切りで下す活躍を見せ、殊勲賞を獲得した。封印していた四つ相撲を解禁して見せたこの一番は、突き押しの基礎固めによって四つ相撲の威力が向上したことの証明であった。
大関候補としての活躍と上位の壁
その後も幕内上位に定着し、右四つに組めば大関級と評される確かな実力を発揮した。昭和63年(1988年)1月場所では大乃国から初金星を獲得。平成4年(1992年)3月場所では小結の地位で2大関を破り、千秋楽まで優勝争いに絡む12勝3敗の好成績を残し、殊勲賞と技能賞を獲得している。
大関昇進の期待も懸かったが、攻めの遅さや体の硬さ、そして度重なる怪我に苦しんだ。さらに、千代の富士や武蔵丸といった大横綱の厚い壁に阻まれたこともあり、大関昇進を果たすことはできなかった。それでも、平成9年(1997年)1月場所では横綱・貴乃花から5年半ぶりとなる金星(自身4個目)を獲得するなど、長く第一線で土俵を務め続けた。
引退と名門・春日野部屋の継承
平成11年(1999年)7月場所、取組中に肋骨を負傷して途中休場を余儀なくされ、十両陥落が濃厚となったことで現役引退を表明した。幕内連続在位76場所という記録を残し、引退後は年寄・竹縄を襲名。平成15年(2003年)には10代春日野(元横綱・栃ノ海)の停年退職に伴い部屋を継承し、11代春日野を襲名した。
本名の「清隆」は、祖母が9代春日野の大ファンであり、その本名にあやかって名付けたものである。年寄襲名に伴い名跡と本名が合わさると、9代春日野と同じ「春日野清隆」となるため、畏れ多いとして改名も考えたが、10代春日野の助言により本名のまま襲名することとなった。
部屋創設以来、歴代師匠が元横綱であった名門において最高位関脇での継承となったが、「三役にとどまった者だからこそできる指導がある」「99パーセントの力士は天才ではない」との信念を持ち、引け目を感じることなく後進を育成している。部屋の方針として出稽古を行わず、本場所を想定した「待ったなし」のスピーディーで厳格な稽古によって力士を鍛え上げている。
- 四股名
- 栃乃和歌 清隆 (とちのわか きよたか)
- 最高位
- 関脇
- 年寄名跡
- 17代竹縄 清隆(春日野) → 11代春日野 清隆
- 出身地
- 和歌山県海草郡下津町
- 本名
- 綛田 清隆
- 生年月日
- 昭和37年(1962)5月22日(63歳)
- 出身高校
- 箕島高校
- 出身大学
- 明治大学
- 所属部屋
- 春日野部屋
- 改名歴
- 綛田 清隆 → 栃乃和歌 清隆
- 初土俵
- 昭和60年(1985)3月 幕下60枚目付出(22歳9ヶ月)
- 新十両
- 昭和61年(1986)9月(所要9場所)
- 24歳3ヶ月(初土俵から1年6ヶ月)
- 新入幕
- 昭和62年(1987)1月(所要11場所)
- 24歳7ヶ月(初土俵から1年10ヶ月)
- 新小結
- 昭和62年(1987)7月(所要14場所)
- 25歳1ヶ月(初土俵から2年4ヶ月)
- 新関脇
- 昭和62年(1987)9月(所要15場所)
- 25歳3ヶ月(初土俵から2年6ヶ月)
- 最終場所
- 平成11年(1999)7月場所(37歳1ヶ月)
- 大相撲歴
- 87場所(14年4ヶ月)
- 通算成績
- 588勝621敗24休1207出場(勝率.487)
- 通算87場所
- 勝ち越し48場所(勝ち越し率.552)(勝ち越し星128)
- 優勝等
- 幕内(次点1),十両優勝1回,幕下優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞2回,敢闘賞3回,技能賞1回,金星4個(大乃国1個、北勝海2個、貴乃花1個)
- 持給金
- 146円50銭(勝ち越し星128個 金星4個)
- 幕内戦歴
- 525勝591敗24休1114出場(勝率.471)
- 在位76場所(在位率.874)
- 勝ち越し39場所(勝ち越し率.513)
- 三役戦歴
- 120勝131敗4休250出場(勝率.480)
- 在位17場所(在位率.195)
- 勝ち越し9場所(勝ち越し率.529)
- 関脇戦歴
- 40勝61敗4休100出場(勝率.400)
- 在位7場所(在位率.080)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率.286)
- 小結戦歴
- 80勝70敗0休150出場(勝率.533)
- 在位10場所(在位率.115)
- 勝ち越し7場所(勝ち越し率.700)
- 前頭戦歴
- 405勝460敗20休864出場(勝率.469)
- 在位59場所(在位率.678)
- 勝ち越し30場所(勝ち越し率.508)
- 十両戦歴
- 20勝10敗0休30出場(勝率.667)
- 在位2場所(在位率.023)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 関取戦歴
- 545勝601敗24休1144出場(勝率.476)
- 在位78場所(在位率.897)
- 勝ち越し41場所(勝ち越し率.526)
- 幕下以下歴
- 43勝20敗0休63出場(勝率.683)
- 在位9場所(在位率.103)
- 勝ち越し7場所(勝ち越し率.778)
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- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(231回 / 42.2%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(230回 / 38.2%)
- ✅ 得意な相手:久島海(12勝2敗 / 勝率.857)
- ✅ 苦手な相手:武蔵丸(0勝23敗 / 勝率.000)
花嵐 一美
和歌山県日高郡由良町出身、花籠部屋の元力士で最高位は十両9枚目。日本大学4年次に全国学生相撲選手権大会で優勝し学生横綱に。卒業後は花籠部屋に入門、幕下最下位格付出として昭和55年(1980)3月場所で初土俵を踏んだ。学生横綱ということで期待は大きかったが幕下生活は長く、新十両昇進までに4年を要した。しかしその十両にも定着することは出来ず、十両在位は3場所に終わった。さらに師匠である花籠親方(元横綱・輪島)が金銭トラブルによって廃業となり、部屋の閉鎖が決定。伸び悩んでいた花嵐自身もこれを機に角界から身を引いた。
廃業後はプロレスラーに転向、「嵐」「ダンク・タニ」そして「大黒坊弁慶」などのリングネームで活躍した。
- 四股名 :花嵐 一美(はなあらし かずみ)
- 最高位 :十両9枚目
- 出身地 :和歌山県日高郡由良町
- 本 名 :小谷 一美
- 生年月日:昭和32年(1957)4月3日
- 出身大学:日本大学
- 所属部屋:花籠部屋
- 改名歴 :小谷⇒羅紗王⇒和歌ノ洋⇒花嵐
- 初土俵 :昭和55年(1980)3月・幕下60付出(22歳11ヵ月)
- 新十両 :昭和59年(1984)3月(26歳11ヵ月)
- 最終場所:昭和60年(1985)11月(28歳7ヵ月)
- 生涯戦歴:138勝125敗6休/263出場(35場所)
- 生涯勝率:52.5%
- 優勝等 :なし
- 十両戦歴:19勝26敗(3場所)勝率:42.2%