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該当力士:30 名
第52代横綱 北の富士 勝昭
北の富士 勝昭 (きたのふじ かつあき)は北海道旭川市出身、出羽海 → 九重部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和32年(1957)1月場所に14歳9ヶ月で初土俵を踏み、昭和49年(1974)7月場所を最後に引退(32歳3ヶ月)。
通算成績は784勝426敗69休1205出場。生涯勝率.651。通算105場所中、74場所を勝ち越した(勝ち越し率.718)。
主な成績は幕内優勝10回(同点1 次点3)、十両優勝1回、三段目(同点1)、殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回、金星1個(大鵬1個)。
本名は竹沢 勝昭。昭和17年(1942)3月28日生まれ。令和6年(2024)11月12日逝去(享年82歳)。
長身の美男子として人気を集め、左四つからのキレのある速攻相撲で大相撲ファンを魅了した第52代横綱である。玉の海と共に「北玉時代」と呼ばれる一時代を築き、引退後は九重親方として千代の富士と北勝海の2人の横綱を育て上げた。相撲協会退職後もNHKの大相撲中継で歯に衣着せぬ解説で長く愛された、昭和から令和にかけて相撲界を輝かせ続けた大輪の華であった。
船酔いと猛稽古の下積み時代
北海道網走郡美幌町に生まれ、留萌市で育つ。幼少期から野球少年であり、中学時代は軟式野球の主力投手として活躍していた。相撲との出会いは、北海道巡業に訪れていた当時の横綱・千代の山(のちの11代九重)から「相撲をやって東京見物をしないか?」と直々に声をかけられたことがきっかけである。この言葉で角界への興味を抱き、中学校卒業と同時に名門・出羽海部屋の門を叩いた。
しかし、上京時の青函連絡船で酷い船酔いに見舞われて体重が激減し、新弟子検査で体重不足として不合格になってしまう。特例である「自費養成力士」として辛くも前相撲に進み、昭和32年(1957年)1月場所に本名の「竹沢」で初土俵を踏んだ。細身であったため出世は遅れ、「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業」という規約に抵触しかけるほど下積みが長引いた。
昭和34年(1959年)5月場所でようやく三段目に昇進し、四股名を「竹美山」へ改名。しかし、同年の夏巡業中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発してしまう。50日間もの入院生活を余儀なくされ、一度は力士を辞めることも考えた。それでも、後援者の勧めで四股名を「北の冨士」と改めてからは心機一転し、本来の素質を開花させていく。
新十両からドタバタの大関昇進
地道に番付を上げ、昭和38年(1963年)3月場所で念願の新十両昇進を果たし、ついに関取の座を掴んだ。関取となってからは持ち前の相撲が冴え渡り、同年11月場所では十両で史上3人目となる15戦全勝優勝を達成する。翌昭和39年(1964年)1月場所の新入幕では13勝2敗を挙げ、新入幕力士としての最多勝新記録を打ち立てて敢闘賞を受賞した。
翌3月場所で一気に新小結へと昇進、同年7月場所で新関脇へと昇進し、その取り口は「スピード相撲」と称された。「腰高を直すか、スピードをつけるか」と問われた際に自らスピードを選び抜いた結果であり、立合いのかち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げや外掛けを交えた躍動感ある相撲を武器とした。勢いに乗ると手がつけられない強さを見せる反面、守勢に回ると無謀な首投げや二丁投げを打ってかえって体勢を崩す脆さも併せ持っていたが、その華麗でスピーディーな取り口は大いにファンを沸かせた。
こうして三役と平幕を往復しながらも地力を蓄え、昭和41年(1966年)7月場所後、大関昇進を果たす。しかし、昇進直前3場所の成績が合計28勝17敗であり、当時の基準でも「まさか大関に昇進するとは思っていなかった」ため、本人は伝達式の朝も熟睡していた。部屋の床山に叩き起こされて初めて事態を把握したが、本来立ち会うべき師匠(8代出羽海夫妻)すらも昇進を想定しておらず、外出して留守であった。そのため、急遽兄弟子の佐田の山が師匠代理を務めるという異例の事態となり、何の準備もしていなかった北の冨士は、慌てて佐田の山から紋付きを、足のサイズが同じだった伊勢ノ海部屋の柏戸からは足袋を借りて急場を凌ぎ、伝達式に臨んだ。
破門と独立、そして初優勝
大関として順調に土俵を務めていた昭和42年(1967年)1月場所後、相撲人生を揺るがす大きな転機が訪れる。恩師である11代九重(千代の山)が、常陸山以来の「分家独立不許」という厳しい不文律に悩みながらも、出羽海部屋からの分家独立を申し出ていたのである。「角界入りのきっかけを作ってくれた九重か、育ててくれた出羽海か」。大きな恩義の板挟みとなり深く思い悩んだが、最終的に九重と行動を共にすることを選んだ。弟子13名中10名までを連れての独立は許されたものの、弟子もろとも出羽海一門からは破門され、高砂一門へ移籍するという苦渋の決断であった。独立当初は経営も苦しく、九重と布団を譲り合う時期もあったという。
こうして、高砂一門に合流して迎えた同年3月場所、北の冨士は土俵上で恩返しを果たす。かつての兄弟子であった横綱・佐田の山を破る活躍を見せ、14勝1敗で悲願の幕内初優勝を飾ったのである。
しかし、初の綱取りがかかった翌5月場所は緊張と稽古不足から5勝10敗と大きく負け越し、翌場所も7勝8敗と2場所連続で負け越してしまう。当時は3場所連続負け越しで角番だったため、初の大関角番で迎えた昭和42年(1967年)9月場所は心機一転、四股名をうかんむりの「北の富士」に改めて臨み、10勝5敗で終えてなんとか角番を脱した。
「北玉時代」と親友の急死
大の稽古嫌いで知られていたが、入門前に1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた恩人が余命幾許もない状況となり、その恩人から「お前が綱を張ることを信じている」と激励されたことで発奮し、人が変わったように猛稽古に打ち込むようになる。良きライバルである片男波部屋の玉乃島(のちの横綱・玉の海)と切磋琢磨し、昭和45年(1970年)1月場所後に横綱審議委員会を経て、玉の海と共に同時に横綱へと推挙された。大関在位21場所での横綱昇進は当時の最長記録であった。
同時昇進した両者は激しく覇を競い合い、大相撲史に輝く「北玉時代」を築き上げた。土俵外では「北さん」「島ちゃん」と呼び合う親友であり、横綱会の余興では玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を披露するなど、新時代の横綱像を見せた。しかし、昭和46年(1971年)10月、玉の海が虫垂炎手術後の急性冠症候群により突然この世を去る。巡業先で訃報を聞いた北の富士は人目をはばからず号泣し、翌11月場所で優勝を果たした際には、パレードを後回しにして玉の海の四十九日法要へ駆けつけた。
不眠症休場と現役引退
一人横綱となってからは、貴ノ花(初代)との取組で「つき手か、かばい手か」「勇み足か」と、二場所連続して同じ顔合わせで立行司が差し違えるという、大相撲史に残る取組をみせるなど孤軍奮闘を繰り広げた。
一方で、極度のスランプに陥った昭和47年(1972年)5月場所では、身体に怪我がないため医師に「最近寝付きが悪い」と答えて「不眠症」の診断書をもらい途中休場。さらに休場中にハワイ旅行をしていたことが発覚して厳重注意を受けるなど、豪放磊落な一面も見せた。
その後も復活優勝を果たすなど健在ぶりを示したが、次第に右膝などの怪我が重なり、昭和49年(1974年)7月場所の2日目に敗れた直後、「体力の限界」を理由に引退を表明した。引退会見では、過去の不眠症の逸話にかけるように「昨夜はよく眠れましたよ。きょうから相撲がないので思い切り飲んだ」と笑ってみせたが、報道を見て引退を自覚したその夜は、本当に眠れなかったという。
名伯楽、そして名解説者として
引退後は13代井筒を襲名し、プレハブ小屋に若い力士たちと枕を並べて寝泊まりし部屋を興した。時にはちゃんこ代にも事欠き、マネージャーと近くの中川でハゼを釣り、天ぷら丼にして腹をすかせた弟子たちに食べさせるなど、愛情と苦労を重ねて部屋を切り盛りした。その甲斐あって部屋創設から2年で弟子は20人程度に増え、関取予備軍も順調に育った。昭和52年(1977年)に11代九重が没すると、自身の部屋と合同させる形で九重部屋を継承。弟弟子であった千代の富士と、直弟子の北勝海を昭和の大横綱へと育て上げた。その指導法は「ガミガミ言わず、反発心を起こさせてやる気を引き出すコツを知っている」と千代の富士から高く評価されている。
平成10年(1998年)、相撲協会の理事選を巡る派閥争いの末に日本相撲協会を退職。その後はNHK大相撲中継の専属解説者となり、愛のある辛口と軽妙洒脱な語り口で絶大な人気を博した。還暦を迎えた際には、協会を退職していたので国技館は使えなかったが、都内のホテルで千代の富士と北勝海を従えて還暦土俵入りを披露している。
平成28年(2016年)に千代の富士が61歳で急逝した際には、「何でだろうねえ、強い順番で逝っちゃうんだ…」と深いショックを隠せず、「これは、もう若いも何も…千代の富士本人が一番悔しいでしょう」と悲痛な追悼のコメントを残した。
自身は横綱経験者の最長寿記録(83歳)の更新に意欲を見せていたが、令和5年(2023年)春から体調を崩して解説を休業。令和6年(2024年)11月12日、東京都内の病院で82歳の華やかな生涯を閉じた。棺には、解説者としての誇りである原稿用紙とボールペン、そして愛用した国語辞典が納められたという。
同年12月18日、八角部屋にて「北の富士さんをしのぶ会」が営まれた。式典内で、直弟子である八角理事長(元横綱・北勝海)は「本日は親方と呼ばせていただきます」と語り始めると、目頭をおさえて声を詰まらせながら「14歳で親方に出会えたこと、そのお陰で今の私があります」と、恩師への深い感謝と別れの言葉を捧げた。
- 四股名
- 北の富士 勝昭 (きたのふじ かつあき)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 13代井筒 勝昭(九重) → 13代井筒 勝昭 → 12代九重 勝昭 → 18代陣幕 純樹(九重) → 18代陣幕 純樹(八角) → 18代陣幕 克昭(八角)
- 出身地
- 北海道旭川市
- 本名
- 竹沢 勝昭
- 生年月日
- 昭和17年(1942)3月28日
- 没年月日
- 令和6年(2024)11月12日(享年82歳)
- 所属部屋
- 出羽海 → 九重部屋
- 改名歴
- 竹沢 勝昭 → 竹美山 勝明 → 北の冨士 勝明 → 北の富士 勝明 → 北の富士 洋行 → 北の富士 勝昭 → 北の富士 勝晃 → 北の富士 勝昭
- 初土俵
- 昭和32年(1957)1月 前相撲(14歳9ヶ月)
- 新十両
- 昭和38年(1963)3月(所要36場所)
- 20歳11ヶ月(初土俵から6年2ヶ月)
- 新入幕
- 昭和39年(1964)1月(所要41場所)
- 21歳9ヶ月(初土俵から7年0ヶ月)
- 新小結
- 昭和39年(1964)3月(所要42場所)
- 21歳11ヶ月(初土俵から7年2ヶ月)
- 新関脇
- 昭和39年(1964)7月(所要44場所)
- 22歳3ヶ月(初土俵から7年6ヶ月)
- 新大関
- 昭和41年(1966)9月(所要57場所)
- 24歳5ヶ月(初土俵から9年8ヶ月)
- 新横綱
- 昭和45年(1970)3月(所要78場所)
- 27歳11ヶ月(初土俵から13年2ヶ月)
- 最終場所
- 昭和49年(1974)7月場所(32歳3ヶ月)
- 大相撲歴
- 105場所(17年6ヶ月)
- 通算成績
- 784勝426敗69休1205出場(勝率.651)
- 通算105場所
- 勝ち越し74場所(勝ち越し率.718)(勝ち越し星425)
- 優勝等
- 幕内優勝10回(同点1 次点3),十両優勝1回,三段目(同点1)
- 受賞・金星
- 殊勲賞2回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個(大鵬1個)
- 持給金
- 599円50銭(勝ち越し星425個 優勝10回 金星1個)
- 横綱戦歴
- 247勝84敗62休326出場(勝率.758)
- 在位27場所(在位率.257)
- 勝ち越し20場所(勝ち越し率.741)
- 大関戦歴
- 208勝107敗0休315出場(勝率.660)
- 在位21場所(在位率.200)
- 勝ち越し19場所(勝ち越し率.905)
- 幕内戦歴
- 592勝294敗62休881出場(勝率.672)
- 在位64場所(在位率.610)
- 勝ち越し52場所(勝ち越し率.812)
- 三役戦歴
- 89勝76敗0休165出場(勝率.539)
- 在位11場所(在位率.105)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.727)
- 関脇戦歴
- 75勝60敗0休135出場(勝率.556)
- 在位9場所(在位率.086)
- 勝ち越し7場所(勝ち越し率.778)
- 小結戦歴
- 14勝16敗0休30出場(勝率.467)
- 在位2場所(在位率.019)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.500)
- 前頭戦歴
- 48勝27敗0休75出場(勝率.640)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率1.000)
- 十両戦歴
- 49勝26敗0休75出場(勝率.653)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 関取戦歴
- 641勝320敗62休956出場(勝率.671)
- 在位69場所(在位率.657)
- 勝ち越し56場所(勝ち越し率.812)
- 幕下以下歴
- 143勝106敗7休249出場(勝率.574)
- 在位34場所(在位率.324)
- 勝ち越し18場所(勝ち越し率.529)
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- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(151回 / 23.4%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(69回 / 21.4%)
- ✅ 得意な相手:清國(39勝15敗 / 勝率.722)
- ✅ 苦手な相手:大鵬(5勝26敗 / 勝率.161)
第58代横綱 千代の富士 貢
千代の富士 貢 (ちよのふじ みつぐ)は北海道松前郡福島町出身、九重部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和45年(1970)9月場所に15歳3ヶ月で初土俵を踏み、平成3年(1991)5月場所を最後に引退(35歳11ヶ月)。
通算成績は1045勝437敗170休1473出場。生涯勝率.709。通算125場所中、96場所を勝ち越した(勝ち越し率.774)。
主な成績は幕内優勝31回(次点11)、幕下優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回、金星3個(重ノ海2個、若乃花1個)。
本名は秋元 貢。昭和30年(1955)6月1日生まれ。平成28年(2016)7月31日逝去(享年61歳)。
幕内最高優勝31回、通算勝星1045勝、53連勝など数々の大記録を打ち立て、昭和から平成にかけて相撲界に一時代を築いた第58代横綱である。引き締まった肉体と精悍な顔立ちから「ウルフ」の愛称で親しまれ、大相撲界で初となる国民栄誉賞を受賞した。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いたが、一直線にのぼりつめたエリートではなく、新入幕後に幕下陥落を経験した苦労人でもある。
麻酔切れの手術と飛行機への憧れ
北海道松前郡福島町に生まれ、幼少期から漁師である父親の手伝いをして自然に足腰を鍛え上げた。抜群の運動神経を持ち、中学時代は走り高跳びや三段跳びで松前郡大会で優勝するなど、「オリンピック選手にもなれる」と評されるほどであったが、本人は相撲が大嫌いであった。
転機となったのは中学1年生の時である。盲腸炎の手術を受けた際、腹の筋肉が厚すぎて手術が長引き、途中で麻酔が切れてしまったが、それに必死に耐える姿を見た病院長の紹介により、11代九重(元横綱・千代の山)から直々の勧誘を受けることとなった。当初は本人も両親も猛反対して断ったが、「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでもやってみて、後のことを考えたらどうだ?」と熱心に誘い続ける11代九重の言葉に、どうしても飛行機に乗りたかった貢は入門を決意する。
上京して九重部屋を訪れた際、まだ現役であった横綱・北の富士(のちの12代九重)と対面している。当時について12代九重は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった」と振り返っている。
昭和45年(1970年)9月場所、中学3年生にして本名の「秋元」で初土俵を踏んだ。翌11月場所で序ノ口につき「大秋元」と改名。昭和46年(1971年)1月場所に序二段へ昇進すると、11代九重の四股名である「千代の山」と、同部屋の先輩横綱「北の富士」から一文字ずつを取って「千代の冨士(のちに千代の富士)」と命名された。師匠からそれだけの大器と見込まれての四股名であった。
脱臼との闘いと「筋肉の鎧」
幕下時代までは、類い稀な運動神経を生かした力任せの強引な投げ技を多用していた。小兵ながら気性の激しさを見せる取り口で順調に出世し、昭和49年(1974年)11月場所には19歳5ヶ月にして新十両へ昇進、四股名をうかんむりの「千代の富士」に改めた。この頃、ちゃんこ番として魚を捌いている姿を見た11代九重から「狼みたいだな」と言われ、以降「ウルフ」という異名が定着していく。
昭和50年(1975年)9月場所では、昭和30年代生まれの力士として第1号となる新入幕を果たす。しかし、強引な投げ技は先天的に関節のかみ合わせが浅かった左肩へ大きな負担をかけており、この頃から「肩の脱臼癖」という致命的な弱点が顕在化し始めた。相撲の粗さもあって幕下へ陥落するなど、入幕前後の時期にかけて公式戦だけで7回、部屋での稽古も含めれば10回を超える脱臼を繰り返し、2年間の十両生活を強いられることとなる。
昭和52年(1977年)10月に11代九重が逝去し、12代九重(北の富士)が部屋を継承する。新師匠から「脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲」を徹底的に叩き込まれたことで脱臼は幾分治まり、昭和53年(1978年)1月場所に再入幕を果たした。同年5月場所には大関・貴ノ花を会心の相撲で破って9勝を挙げ、初の三賞となる敢闘賞を受賞。同年7月場所には新小結へと昇進した。
しかし、幕内定着が見えてきた昭和54年(1979年)3月場所で右肩を脱臼し、全治1年〜2年という重大な怪我を負ってしまう。診察で「肩関節の臼が左右とも普通の人の3分の2しかない」ことが判明し、医師から「手術をせずに2ヶ月で治したいなら、筋力トレーニングを行って肩の周辺を筋肉で固めなさい」との助言を受けた。これを機に、1日500回の腕立て伏せやウエイトトレーニングをいち早く導入し、「筋肉の鎧」を身に纏うことで肩を保護する画期的な怪我防止策を見出した。
同年5月場所は西十両2枚目へ下がり、公傷制度を利用して治療に専念する予定であったが、担当親方の書類提出忘れという不手際により公傷が認められない事態となる。休場し続ければ幕下陥落の危機であったため、3日目から強行出場して9勝を挙げ、同年7月場所での幕内復帰を掴み取った。以降は、肩の脱臼を防ぐため「前廻しを取ってからの一気の寄り」という新しい形を完成させ、昭和55年(1980年)3月場所からは幕内上位に定着した。
ウルフフィーバーと大横綱への道
昭和55年(1980年)9月場所には小結の地位で横綱・北の湖の連勝を24で止め、初の2桁勝利(10勝)を記録。翌11月場所で新関脇に昇進し、11勝4敗の好成績を挙げて大関昇進の機運を高めた。
昭和56年(1981年)1月場所、西関脇の地位で初日から14連勝の快進撃を見せる。千秋楽の本割で北の湖に敗れて全勝優勝は逃したものの、直後の優勝決定戦において、本割で吊り出された際に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて立てた作戦が見事に的中し、右からの上手出し投げで北の湖を下して待望の幕内初優勝を果たした。この瞬間のテレビ最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている。土俵下の審判委員として控えていた師匠の12代九重も「初優勝した時は、姿を見て涙が出ましたから」と回顧するほど劇的な勝利であり、場所後に大関へと昇進した。
大関昇進後も勢いは止まらず、同年7月場所では千秋楽で再び北の湖を破り、14勝1敗で2度目の優勝を飾った。7年間横綱に君臨していた北の湖を破って賜杯を手にしたこの一番は「覇者交代の一番」と位置付けられており、場所後の横綱審議委員会では満場一致で推挙され、第58代横綱への昇進を果たす。この年は関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を打ち立て、その精悍なルックスと豪快な相撲から「ウルフフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。
53連勝と国民栄誉賞
横綱昇進後は圧倒的な強さで賜杯を重ね、数々の大記録を打ち立てていく。体格で上回る相手に対し、凄まじい集中力と研究熱心さで挑んだ。本場所で負けた相手には自ら出向いて稽古し、攻略法を身につけた。「横綱になったら勝った相撲は新聞に載せてもらえない。それなら勝っても取り上げてもらえるような相撲を取ろう」という思いから編み出された、相手の頭を抑えつけるような強烈な上手投げは「ウルフスペシャル」と称され、ファンを熱狂させた。また、横綱土俵入りは四股が非常に美しく、上げた足が頭より高い位置に達するなど、類い稀な運動能力と几帳面な礼儀作法を土俵上で体現し続けた。
昭和63年(1988年)5月場所の7日目から同年11月場所の14日目にかけては、昭和以降において双葉山に次ぐ歴代2位となる53連勝を記録した。平成元年(1989年)9月場所では、通算勝ち星で大鵬を抜いて歴代単独1位(当時)となる通算873勝目を達成し、相撲界で初となる国民栄誉賞を授与された。30代半ばを迎えてもなお第一線で君臨し続け、幾度も綱の権威を示した。
引退と名門・九重部屋の継承
平成2年(1990年)11月場所には史上初の通算1000勝を達成し、結果的に最後となる31度目の幕内最高優勝を飾った。しかし、肉体はすでに限界に近づいていた。平成3年(1991年)1月場所の初日に幕内通算805勝(当時単独1位)を達成するも、翌日に左腕を負傷して途中休場し、翌場所も全休を余儀なくされる。
復帰を懸けた同年5月場所、初日に当時18歳の新鋭・貴花田(のちの横綱・貴乃花)と対戦するが、まわしを取れず寄り切りで敗れた。続く2日目の板井戦には勝利したものの納得のいく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだが、とったりを受けて完敗を喫した。その日の夜に緊急記者会見を開き、「体力の限界、気力もなくなり引退することになりました」との言葉を残して現役引退を表明した。横綱昇進の夜、師匠から「辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言われたその言葉通りの、潔い幕引きであった。
引退にあたり相撲協会からは一代年寄を打診されたが、「部屋を一代限りで終えたくない」とこれを辞退。年寄・陣幕を襲名し、平成4年(1992年)には12代九重と名跡を交換する形で13代九重を襲名して九重部屋を継承した。師匠として大関・千代大海など多くの関取を育成し、日本相撲協会の理事としても多方面で手腕を振るった。
平成27年(2015年)5月31日には、両国国技館にて現役横綱を従えて還暦土俵入りを行った。しかしこの頃からがんによる闘病生活が始まり、平成28年(2016年)7月31日、膵臓がんのため61歳で逝去した。弔問に訪れた前師匠の北の富士は「穏やかな表情だった。千代の富士とは縁もあって、横綱になってくれて先代に面目が立った」と、不世出の大横綱の死を悼んだ。
- 四股名
- 千代の富士 貢 (ちよのふじ みつぐ)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 17代陣幕 貢(九重) → 13代九重 貢
- 出身地
- 北海道松前郡福島町
- 本名
- 秋元 貢
- 生年月日
- 昭和30年(1955)6月1日
- 没年月日
- 平成28年(2016)7月31日(享年61歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 秋元 貢 → 大秋元 貢 → 千代の冨士 貢 → 千代の富士 貢
- 初土俵
- 昭和45年(1970)9月 前相撲(15歳3ヶ月)
- 新十両
- 昭和49年(1974)11月(所要25場所)
- 19歳5ヶ月(初土俵から4年2ヶ月)
- 新入幕
- 昭和50年(1975)9月(所要30場所)
- 20歳3ヶ月(初土俵から5年0ヶ月)
- 新小結
- 昭和53年(1978)7月(所要47場所)
- 23歳1ヶ月(初土俵から7年10ヶ月)
- 新関脇
- 昭和55年(1980)11月(所要61場所)
- 25歳5ヶ月(初土俵から10年2ヶ月)
- 新大関
- 昭和56年(1981)3月(所要63場所)
- 25歳9ヶ月(初土俵から10年6ヶ月)
- 新横綱
- 昭和56年(1981)9月(所要66場所)
- 26歳3ヶ月(初土俵から11年0ヶ月)
- 最終場所
- 平成3年(1991)5月場所(35歳11ヶ月)
- 大相撲歴
- 125場所(20年8ヶ月)
- 通算成績
- 1045勝437敗170休1473出場(勝率.709)
- 通算125場所
- 勝ち越し96場所(勝ち越し率.774)(勝ち越し星670)
- 優勝等
- 幕内優勝31回(次点11),幕下優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞5回,金星3個(重ノ海2個、若乃花1個)
- 持給金
- 1450円(勝ち越し星670個 優勝31回 金星3個)
- 横綱戦歴
- 625勝112敗148休730出場(勝率.856)
- 在位59場所(在位率.472)
- 勝ち越し49場所(勝ち越し率.831)
- 大関戦歴
- 38勝7敗0休45出場(勝率.844)
- 在位3場所(在位率.024)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率1.000)
- 幕内戦歴
- 807勝253敗155休1052出場(勝率.767)
- 在位81場所(在位率.648)
- 勝ち越し64場所(勝ち越し率.790)
- 三役戦歴
- 46勝29敗0休75出場(勝率.613)
- 在位5場所(在位率.040)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.600)
- 関脇戦歴
- 25勝5敗0休30出場(勝率.833)
- 在位2場所(在位率.016)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 小結戦歴
- 21勝24敗0休45出場(勝率.467)
- 在位3場所(在位率.024)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.333)
- 前頭戦歴
- 98勝105敗7休202出場(勝率.485)
- 在位14場所(在位率.112)
- 勝ち越し9場所(勝ち越し率.643)
- 十両戦歴
- 130勝120敗5休249出場(勝率.522)
- 在位17場所(在位率.136)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.706)
- 関取戦歴
- 937勝373敗160休1301出場(勝率.720)
- 在位98場所(在位率.784)
- 勝ち越し76場所(勝ち越し率.776)
- 幕下以下歴
- 108勝64敗10休172出場(勝率.628)
- 在位26場所(在位率.208)
- 勝ち越し20場所(勝ち越し率.769)
千代の富士 貢の更に詳細なデータは力士名鑑で!
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(392回 / 41.4%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(131回 / 35.0%)
- ✅ 得意な相手:巨砲(37勝4敗 / 勝率.902)
- ✅ 苦手な相手:北の湖(6勝12敗 / 勝率.333)
第61代横綱 北勝海 信芳
北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし)は北海道広尾郡広尾町出身、九重部屋の元力士で、最高位は第61代横綱。
昭和54年(1979)3月場所に15歳8ヶ月で初土俵を踏み、平成4年(1992)3月場所を最後に引退(28歳9ヶ月)(※番付上は平成4年5月場所が最後)。
通算成績は591勝286敗109休874出場。生涯勝率.674。通算79場所中、59場所を勝ち越した(勝ち越し率.756)。
主な成績は幕内優勝8回(同点2,次点6),十両優勝1回,幕下優勝1回,序二段優勝1回。殊勲賞3回,敢闘賞3回,技能賞5回,金星1個(北の湖1個)。
昭和38年(1963)6月22日生まれ。本名は保志 信芳。
千代の富士との稽古で強くなった努力家。引退後は八角部屋を興す。第13代日本相撲協会理事長。
- 年寄
- 8代・八角 信芳
- 四股名
- 北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし)
- 最高位
- 第61代横綱
- 年寄名跡
- 五年年寄 北勝海 信芳 → 8代八角 信芳
- 出身地
- 北海道広尾郡広尾町
- 本名
- 保志 信芳
- 生年月日
- 昭和38年(1963)6月22日(62歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 保志 信芳 → 富士若 信芳 → 保志 信芳 → 保志 延芳 → 北勝海 信芳
- 初土俵
- 昭和54年(1979)3月 前相撲(15歳8ヶ月)
- 新十両
- 昭和58年(1983)3月(所要24場所)
- 19歳8ヶ月(初土俵から4年0ヶ月)
- 新入幕
- 昭和58年(1983)9月(所要27場所)
- 20歳2ヶ月(初土俵から4年6ヶ月)
- 新小結
- 昭和59年(1984)1月(所要29場所)
- 20歳6ヶ月(初土俵から4年10ヶ月)
- 新関脇
- 昭和59年(1984)3月(所要30場所)
- 20歳8ヶ月(初土俵から5年0ヶ月)
- 新大関
- 昭和61年(1986)9月(所要45場所)
- 23歳2ヶ月(初土俵から7年6ヶ月)
- 横綱昇進
- 昭和62年(1987)7月(所要50場所)
- 24歳0ヶ月(初土俵から8年4ヶ月)
- 最終場所
- 平成4年(1992)3月(28歳9ヶ月)※番付上は平成4年5月場所
- 大相撲歴
- 79場所(13年0ヶ月)
- 通算成績
- 591勝286敗109休874出場(勝率.674)
- 通算79場所
- 勝ち越し59場所(勝ち越し率.756)
- 優勝等
- 幕内優勝8回(同点2,次点6),十両優勝1回,幕下優勝1回,序二段優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞3回,敢闘賞3回,技能賞5回,金星1個
- 幕内戦歴
- 465勝206敗109休668出場(勝率.693)
- 在位52場所(在位率.658)
- 勝ち越し40場所(勝ち越し率.769)
- 横綱戦歴
- 250勝76敗109休323出場(勝率.767)
- 在位29場所(在位率.367)
- 勝ち越し21場所(勝ち越し率.724)
- 大関戦歴
- 56勝19敗0休75出場(勝率.747)
- 在位5場所(在位率.063)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率1.000)
- 三役戦歴
- 118勝77敗0休195出場(勝率.605)
- 在位13場所(在位率.165)
- 勝ち越し10場所(勝ち越し率.769)
- 関脇戦歴
- 84勝51敗0休135出場(勝率.622)
- 在位9場所(在位率.114)
- 勝ち越し7場所(勝ち越し率.778)
- 小結戦歴
- 34勝26敗0休60出場(勝率.567)
- 在位4場所(在位率.051)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.750)
- 前頭戦歴
- 41勝34敗0休75出場(勝率.547)
- 在位5場所(在位率.063)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 十両戦歴
- 26勝19敗0休45出場(勝率.578)
- 在位3場所(在位率.038)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率1.000)
- 関取戦歴
- 491勝225敗109休713出場(勝率.686)
- 在位55場所(在位率.696)
- 勝ち越し43場所(勝ち越し率.782)
- 幕下以下歴
- 100勝61敗0休161出場(勝率.621)
- 在位23場所(在位率.291)
- 勝ち越し16場所(勝ち越し率.696)
千代大海 龍二
千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ)は大分県大分市出身、九重部屋の元力士で、最高位は大関。
平成4年(1992)11月場所に16歳6ヶ月で初土俵を踏み、平成22年(2010)1月場所を最後に引退(33歳8ヶ月)。
通算成績は771勝528敗115休1288出場。生涯勝率.594。通算104場所中、76場所を勝ち越した(勝ち越し率.738)。
主な成績は幕内優勝3回(同点1,次点6),十両優勝2回,三段目優勝1回,序ノ口優勝1回。殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個(貴乃花1個)。
昭和51年(1976)4月29日生まれ。本名は須藤 龍二。
13代九重(千代の富士)が育てた初の幕内力士、入幕9場所目の初優勝で大関に昇進。大関在位65場所は魁皇と共に歴代1位。千代の富士の急逝によって九重部屋を継承。
- 年寄名跡
- 14代・九重 龍二
- 四股名
- 千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ)
- 最高位
- 大関
- 年寄名跡
- 20代佐ノ山 龍二 → 14代九重 龍二
- 出身地
- 大分県大分市
- 本名
- 廣嶋 龍二→須藤 龍二
- 生年月日
- 昭和51年(1976)4月29日(50歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 廣嶋 龍二 → 千代大海 龍二
- 初土俵
- 平成4年(1992)11月 前相撲(16歳6ヶ月)
- 新十両
- 平成7年(1995)7月(所要16場所)
- 19歳2ヶ月(初土俵から2年8ヶ月)
- 新入幕
- 平成9年(1997)9月(所要29場所)
- 21歳4ヶ月(初土俵から4年10ヶ月)
- 新小結
- 平成10年(1998)5月(所要33場所)
- 22歳0ヶ月(初土俵から5年6ヶ月)
- 新関脇
- 平成10年(1998)7月(所要34場所)
- 22歳2ヶ月(初土俵から5年8ヶ月)
- 新大関
- 平成11年(1999)3月(所要38場所)
- 22歳10ヶ月(初土俵から6年4ヶ月)
- 最終場所
- 平成22年(2010)1月(33歳8ヶ月)
- 大相撲歴
- 104場所(17年2ヶ月)
- 通算成績
- 771勝528敗115休1288出場(勝率.594)
- 通算104場所
- 勝ち越し76場所(勝ち越し率.738)(勝ち越し星324)
- 優勝等
- 幕内優勝3回(同点1,次点6),十両優勝2回,三段目優勝1回,序ノ口優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個
- 持給金
- 286円(勝ち越し星324個 優勝3回 金星1個)
- 幕内戦歴
- 597勝402敗115休988出場(勝率.598)
- 在位75場所(在位率.721)
- 勝ち越し54場所(勝ち越し率.720)
- 大関戦歴
- 515勝345敗115休850出場(勝率.599)
- 在位65場所(在位率.625)
- 勝ち越し46場所(勝ち越し率.708)
- 三役戦歴
- 51勝28敗0休78出場(勝率.646)
- 在位6場所(在位率.058)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率.833)
- 関脇戦歴
- 43勝21敗0休63出場(勝率.672)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 小結戦歴
- 8勝7敗0休15出場(勝率.533)
- 在位1場所(在位率.010)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率1.000)
- 前頭戦歴
- 31勝29敗0休60出場(勝率.517)
- 在位4場所(在位率.038)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.750)
- 十両戦歴
- 104勝91敗0休195出場(勝率.533)
- 在位13場所(在位率.125)
- 勝ち越し10場所(勝ち越し率.769)
- 関取戦歴
- 701勝493敗115休1183出場(勝率.587)
- 在位88場所(在位率.846)
- 勝ち越し64場所(勝ち越し率.727)
- 幕下以下歴
- 70勝35敗0休105出場(勝率.667)
- 在位15場所(在位率.144)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.800)
北瀬海 弘光
北海道瀬棚郡北桧山町(現・久遠郡せたな町新成)出身、九重部屋の元力士で最高位は関脇。旭國、鷲羽山と共に「小兵トリオ」と呼ばれた。
出羽海部屋の部屋付親方だった11代九重(元横綱・千代の山)に勧誘されて出羽海部屋に入門、昭和39年(1964)7月場所で初土俵を踏んだ。のちに九重の独立に従って九重部屋へと移籍する。
稽古熱心で知られており、特に高砂部屋の富士櫻との猛稽古が有名であった北瀬海は、昭和44年(1969)9月場所で新十両へと昇進。その後、小兵故に苦労した時期もあったが昭和46年(1971)11月場所での十両優勝で弾みがつき、翌年3月場所には新入幕となった。
新入幕の昭和47年(1972)3月場所は9日目まで8勝1敗と絶好調。幕尻ながら三役との対戦も組まれたが、見事に関脇・三重ノ海(のち横綱)を倒している。昭和51年(1976)3月場所では横綱・輪島を破って金星と殊勲賞を受賞。同じく小兵の小結・鷲羽山が敢闘賞、関脇・旭國が優勝同点と技能賞受賞という活躍ぶりで小兵力士たちへの注目が高まった。翌場所、新小結に昇進、さらに7月場所には関脇昇進と北瀬海は全盛期を迎えていた。
昭和54年(1979)5月場所を最後に現役を引退。大銀杏を結えるのか?と、髪の薄さが話題になったこともあった北瀬海だが、これは鋭い立ち合いでのぶちかましを武器にしていたため髪が擦れてしまったことが原因であり、小兵力士の稽古量を物語るものでもあった。
- 四股名 :北瀬海 弘光(きたせうみ ひろみつ)
- 最高位 :関脇
- 年寄名跡:10代君ヶ濱
- 出身地 :北海道瀬棚郡北桧山町(現・久遠郡せたな町新成)
- 本 名 :土谷 孝
- 生年月日:昭和23年(1948)7月2日
- 所属部屋:出羽海⇒九重部屋
- 改名歴 :土谷⇒若狭山⇒北瀬海
- 初土俵 :昭和39年(1964)7月(16歳0ヵ月)
- 新十両 :昭和44年(1969)9月(21歳2ヵ月)
- 新入幕 :昭和47年(1972)3月(23歳8ヵ月)
- 新三役 :昭和51年(1976)5月(27歳10ヵ月)
- 最終場所:昭和54年(1979)5月(30歳10ヵ月)
- 生涯戦歴:536勝526敗6休/1060出場(90場所)
- 生涯勝率:50.5%
- 優勝等 :十両優勝1回,幕下優勝1回
- 成 績 :殊勲賞2回,技能賞1回,金星1個
- 幕内戦歴:266勝310敗6休(39場所)勝率:46.2%
- 関脇:6勝18敗6休(2場所)勝率:25.0%
- 小結:10勝5敗(1場所)勝率:66.7%
- 前頭:250勝287敗(36場所)勝率:46.6%
- 十両戦歴:135勝120敗(17場所)勝率:52.9%
北勝力 英樹
北勝力 英樹 (ほくとうりき ひでき)は栃木県大田原市出身、九重 → 八角部屋の元力士で、最高位は関脇。
平成5年(1993)3月場所に15歳4ヶ月で初土俵を踏み、平成23年(2011)5月場所を最後に引退(33歳6ヶ月)。
通算成績は573勝566敗53休1137出場。生涯勝率.504。通算109場所中、60場所を勝ち越した(勝ち越し率.556)。
主な成績は幕内(同点1 次点2)、三段目優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞3回、金星1個(朝青龍1個)。
昭和52年(1977)10月31日生まれ。本名は木村 英樹。
強烈な諸手突きとのど輪を武器に幕内上位で活躍し、横綱・朝青龍と優勝決定戦を演じた北勝力は、気迫あふれる取り口でファンを魅了した名力士である。現役時代はポーカーフェイスを貫いたが、引退後は「筋肉親方」として親しまれ、古巣で後進の指導にあたっている。
入門と八角部屋への移籍
東京都大田区に生まれ、両親の故郷である栃木県大田原市(旧・那須郡黒羽町)で育つ。中学生のころに父親の勧めで柔道を経験し、卒業後の平成5年(1993年)3月場所に、13代九重(第58代横綱・千代の富士)が率いる九重部屋から初土俵を踏んだ。
当時、九重部屋の部屋付き親方であった8代八角(第61代横綱・北勝海)の内弟子として「北勝力」の四股名をもらい、同年10月に八角が独立して八角部屋を創設すると、それに伴い移籍した。
長い下積みを経ての関取昇進
出世の足取りは決して早いものではなく、じっくりと地力を蓄える時期が長く続いた。突き押し相撲に磨きをかけ、初土俵から約9年の歳月を経た平成14年(2002年)1月場所において、24歳2ヶ月で新十両へ昇進する。
約9年という長い下積みを経験したが、関取昇進後は一気に才能が開花する。十両の地位をわずか2場所で通過し、同年5月場所では新入幕を果たした。この新入幕の場所で持ち前の馬力を発揮し、11勝4敗の好成績を挙げる。優勝力士に次ぐ成績を残したことが評価され、自身初となる三賞(敢闘賞)を獲得し、一躍幕内のホープとして注目を集めた。
豪快な相撲と朝青龍との死闘
幕内上位に定着すると、強烈な諸手突きと右のど輪から一気に押して出る怪力型の取り口で存在感を示した。ツボにはまれば電車道で勝負を決める豪快さを見せる一方で、四つ相撲への脆さや、突っ掛けによる立合いの不成立でブーイングを受けるなど、不器用で粗削りな面も持ち合わせていた。
強みと弱みがはっきりとしたその気迫あふれる相撲で、土俵人生の大きなハイライトとなったのが、西前頭筆頭で迎えた平成16年(2004年)5月場所である。初日から白星を重ねて13勝2敗の好成績を挙げ、全盛期の横綱・朝青龍と優勝決定戦を争った。惜しくも敗れて優勝同点となったものの、その堂々たる戦いぶりが高く評価され、殊勲賞と敢闘賞をダブル受賞している。この活躍により、続く同年7月場所では自己最高位となる西関脇へと昇進を果たした。
大怪我による引退と「筋肉親方」
その後も長きにわたり気迫あふれる相撲を見せ続けたが、晩年は怪我に苦しめられた。平成22年(2010年)9月場所での取組中に脳震盪で倒れるアクシデントに見舞われ、途中休場を余儀なくされる。翌場所以降も連続休場となったことで、平成23年(2011年)5月場所(技量審査場所)には幕下へ陥落してしまう。
10年前から痛めていた首の状態が限界に達し、医師から相撲をやめるよう進言されたこともあり、同年5月14日に現役引退を発表。引退後は年寄「谷川」を襲名した。現役時代は土俵上で感情を出さないポーカーフェイスとして知られていたが、引退後にNHKの大相撲中継で解説を務めると、筋肉への並々ならぬこだわりと巧みな話術を披露。「筋肉親方」の愛称でファンから広く親しまれる存在となった。長く八角部屋で指導にあたっていたが、平成30年(2018年)6月には自身が初土俵を踏んだ古巣の九重部屋へと転籍し、現在も裏方として若い力士たちの育成に情熱を注いでいる。
- 四股名
- 北勝力 英樹 (ほくとうりき ひでき)
- 最高位
- 関脇
- 年寄名跡
- 13代谷川 英樹(八角) → 13代谷川 英樹(九重)
- 出身地
- 東京都大田区 → 栃木県那須郡黒羽町 → 栃木県大田原市
- 本名
- 木村 英樹
- 生年月日
- 昭和52年(1977)10月31日(48歳)
- 所属部屋
- 九重 → 八角部屋
- 改名歴
- 北勝力 英樹
- 初土俵
- 平成5年(1993)3月 前相撲(15歳4ヶ月)
- 新十両
- 平成14年(2002)1月(所要53場所)
- 24歳2ヶ月(初土俵から8年10ヶ月)
- 新入幕
- 平成14年(2002)5月(所要55場所)
- 24歳6ヶ月(初土俵から9年2ヶ月)
- 新関脇
- 平成16年(2004)7月(所要68場所)
- 26歳8ヶ月(初土俵から11年4ヶ月)
- 最終場所
- 平成23年(2011)5月場所(33歳6ヶ月)
- 大相撲歴
- 109場所(18年2ヶ月)
- 通算成績
- 573勝566敗53休1137出場(勝率.504)
- 通算109場所
- 勝ち越し60場所(勝ち越し率.556)(勝ち越し星198)
- 優勝等
- 幕内(同点1 次点2),三段目優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞3回,金星1個(朝青龍1個)
- 持給金
- 112円(勝ち越し星198個 金星1個)
- 幕内戦歴
- 329勝383敗23休710出場(勝率.463)
- 在位49場所(在位率.450)
- 勝ち越し24場所(勝ち越し率.490)
- 三役戦歴
- 3勝12敗0休15出場(勝率.200)
- 在位1場所(在位率.009)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 関脇戦歴
- 3勝12敗0休15出場(勝率.200)
- 在位1場所(在位率.009)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 前頭戦歴
- 326勝371敗23休695出場(勝率.469)
- 在位48場所(在位率.440)
- 勝ち越し24場所(勝ち越し率.500)
- 十両戦歴
- 47勝28敗15休75出場(勝率.627)
- 在位6場所(在位率.055)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.667)
- 関取戦歴
- 376勝411敗38休785出場(勝率.479)
- 在位55場所(在位率.505)
- 勝ち越し28場所(勝ち越し率.509)
- 幕下以下歴
- 197勝155敗15休352出場(勝率.560)
- 在位53場所(在位率.486)
- 勝ち越し32場所(勝ち越し率.604)
北勝力 英樹の更に詳細なデータは力士名鑑で!
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:押し出し(199回 / 34.7%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(167回 / 29.5%)
- ✅ 得意な相手:普天王(13勝3敗 / 勝率.812)
- ✅ 苦手な相手:琴欧洲(0勝13敗 / 勝率.000)
孝乃富士 忠雄
東京都大田区出身、九重部屋の元力士で最高位は小結。身体が大きかったことから九重(元横綱・北の富士)に勧誘され、昭和54年(1979)3月場所で初土俵を踏む。保志(のち横綱・北勝海)とは同部屋同期であり、のちに北勝海の土俵入りの際には太刀持ちを務めた。昭和60年(1985)3月場所で新十両昇進、約1年後の昭和61年(1986)5月場所で新入幕を果たす。
横綱・双羽黒には何故か強く、生涯2度の対戦でいずれも金星を奪った。東前頭9枚目で迎えた平成2年(1990)5月場所では11勝4敗と活躍し敢闘賞を受賞、翌場所には小結に昇進したが僅か2勝に終わり三役経験はこの1場所のみであった。
長身で懐が深く、右上手を取れば万全であったが立ち合いに迫力がなかったことから幕内上位には歯が立たなかった。引退後は本名の安田忠夫でプロレスに転向。
- 四股名 :孝乃富士 忠雄(たかのふじ ただお)
- 最高位 :小結
- 出身地 :東京都大田区
- 本 名 :安田 忠夫
- 生年月日:昭和38年(1963)10月9日
- 所属部屋:九重部屋
- 改名歴 :安田⇒富士の森⇒孝乃富士
- 初土俵 :昭和54年(1979)3月(15歳5ヵ月)
- 新十両 :昭和60年(1985)3月(21歳5ヵ月)
- 新入幕 :昭和61年(1986)5月(22歳7ヵ月)
- 新三役 :平成2年(1990)7月(26歳9ヵ月)
- 最終場所:平成4年(1992)5月(28歳7ヵ月)
- 生涯戦歴:418勝459敗4休/876出場(80場所)
- 生涯勝率:47.7%
- 優勝等 :三段目同点1回
- 成 績 :敢闘賞1回,金星2個
- 幕内戦歴:212勝281敗2休(33場所)勝率:43.0%
- 小結:2勝13敗(1場所)勝率:13.3%
- 前頭:210勝268敗2休(32場所)勝率:43.9%
- 十両戦歴:52勝68敗(8場所)勝率:43.3%
巴富士 俊英
千代の富士の内弟子 下手投げが得意だった
- 四股名 :巴富士 俊英(ともえふじ としひで)
- 最高位 :小結
- 出身地 :秋田県鹿角市
- 本 名 :黒澤 俊英
- 生年月日:昭和46年(1971)1月27日
- 所属部屋:九重部屋
- 改名歴 :黒澤⇒巴富士⇒巴冨士
- 初土俵 :昭和61年(1986)5月(15歳4ヵ月)
- 新十両 :平成2年(1990)7月(19歳6ヵ月)
- 新入幕 :平成3年(1991)1月(20歳0ヵ月)
- 新三役 :平成4年(1992)7月(21歳6ヵ月)
- 最終場所:平成10年(1998)9月(27歳8ヵ月)
- 生涯戦歴:354勝307敗97休/657出場(75場所)
- 生涯勝率:53.6%
- 優勝等 :十両同点1回,幕下同点1回,序二段優勝1回
- 成 績 :敢闘賞1回
- 幕内戦歴:112勝117敗26休(17場所)勝率:48.9%
- 小結:0勝2敗13休(1場所)勝率:0.0%
- 前頭:112勝115敗13休(16場所)勝率:49.3%
- 十両戦歴:86勝82敗27休(13場所)勝率:51.2%
千代天山 大八郎
新入幕から3場所連続の三賞受賞は史上初
- 四股名 :千代天山 大八郎(ちよてんざん だいはちろう)
- 最高位 :小結
- 出身地 :大阪府大阪市東住吉区
- 本 名 :角 大八郎
- 生年月日:昭和51年(1976)2月6日
- 所属部屋:九重部屋
- 改名歴 :角⇒千代天山
- 初土俵 :平成3年(1991)3月(15歳1ヵ月)
- 新十両 :平成9年(1997)1月(20歳11ヵ月)
- 新入幕 :平成11年(1999)1月(22歳11ヵ月)
- 新三役 :平成11年(1999)7月(23歳5ヵ月)
- 最終場所:平成20年(2008)1月(31歳11ヵ月)
- 生涯戦歴:519勝541敗33休/1055出場(102場所)
- 生涯勝率:49.0%
- 優勝等 :十両優勝1回(同点1),序二段同点1回
- 成 績 :殊勲賞1回,敢闘賞2回,金星3個
- 幕内戦歴:144勝181敗20休(23場所)勝率:44.3%
- 小結:3勝12敗(1場所)勝率:20.0%
- 前頭:141勝169敗20休(22場所)勝率:45.5%
- 十両戦歴:184勝206敗(26場所)勝率:47.2%
千代鳳 祐樹
千代鳳 祐樹 (ちよおおとり ゆうき)は鹿児島県志布志市出身、九重部屋の元力士で、最高位は小結。
平成20年(2008)5月場所に15歳7ヶ月で初土俵を踏み、令和3年(2021)11月場所を最後に引退(29歳1ヶ月)。
通算成績は430勝363敗104休785出場。生涯勝率.548。通算80場所中、43場所を勝ち越した(勝ち越し率.544)。
主な成績は十両優勝1回、幕下(同点2)、序二段優勝1回。
平成4年(1992)10月11日生まれ。本名は木下 祐樹。
幼少期から柔道と相撲で鍛え上げた身体を武器に、若くして関取の座を掴んだ千代鳳は、突き押しと叩きへの強さを持ち味に三役まで昇進した名力士である。度重なる大怪我に苦しめられながらも、不屈の闘志で土俵を務め上げたその歩みは、多くの相撲ファンの記憶に刻まれている。
幼少期の活躍と九重部屋への入門
鹿児島県志布志市で育ち、小学生の頃から柔道と相撲に打ち込んだ。柔道では黒帯を取得して全国大会に出場する腕前を持ち、相撲でも小学6年次にわんぱく相撲全国大会でベスト16に入るなど、早くから類まれな格闘センスを示していた。
中学校卒業後の平成20年(2008年)5月場所、一足先に入門していた兄(のちの千代丸)を追うように、13代九重(第58代横綱・千代の富士)が率いる九重部屋へと入門。「大木下」の四股名で初土俵を踏んだ。入門後は順調に番付を上げ、平成21年(2009年)9月場所では序二段優勝を飾る。翌11月場所での三段目昇進を機に、四股名を「千代鳳」へと改名した。
10代での新十両と幕内への出世
改名後も着実に地力をつけ、初土俵から約4年となる平成24年(2012年)3月場所に新十両へ昇進。このとき19歳5ヶ月であり、10代での関取昇進という見事なスピード出世であった。さらに、初土俵から丸5年となる平成25年(2013年)5月場所では新入幕を果たし、幕内の土俵へと駆け上がった。
幕内と十両を行き来する時期もあったが、東十両2枚目で迎えた平成25年(2013年)11月場所では、13勝2敗の好成績で十両優勝を果たす。翌平成26年(2014年)1月場所では兄の千代丸が十両優勝を飾っており、史上初となる「兄弟による十両連続優勝」の歴史的快挙へと繋がる、価値ある賜杯であった。
新三役への飛躍と怪我との闘い
再び幕内へ定着すると、容易なことでは前に落ちない足腰の良さと、相手の叩きに滅法強い突き押し相撲を武器に白星を重ねた。その実力が結実し、平成26年(2014年)5月場所では自己最高位となる西小結へ昇進し、新三役の座を掴み取った。
しかし、三役昇進後は度重なる怪我との闘いとなる。右肩の脱臼や左膝の怪我などの影響により休場が重なり、幕内から幕下、さらには三段目へと大きく番付を落とす試練を味わった。それでも決して土俵を諦めることなく、猛稽古で再び十両へ復帰するなど、執念の相撲を取り続けた。長年にわたり怪我と向き合いながら土俵を務めたが、東幕下12枚目で迎えた令和3年(2021年)11月場所を最後に現役引退を発表した。
引退後は年寄「佐ノ山」を襲名し(のちに大山、錦島へと名跡変更)、日本相撲協会に残って後進の指導にあたっている。怪我に泣きながらも相撲に懸けたその情熱と確かな技術は、指導者となった現在も若い力士たちへと受け継がれている。
- 四股名
- 千代鳳 祐樹 (ちよおおとり ゆうき)
- 最高位
- 小結
- 年寄名跡
- 23代佐ノ山 祐樹(九重) → 13代大山 祐樹(九重) → 20代錦島 祐樹(九重)
- 出身地
- 鹿児島県志布志市
- 本名
- 木下 祐樹
- 生年月日
- 平成4年(1992)10月11日(33歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 大木下 祐樹 → 千代鳳 祐樹
- 初土俵
- 平成20年(2008)5月 前相撲(15歳7ヶ月)
- 新十両
- 平成24年(2012)3月(所要22場所)
- 19歳5ヶ月(初土俵から3年10ヶ月)
- 新入幕
- 平成25年(2013)5月(所要29場所)
- 20歳7ヶ月(初土俵から5年0ヶ月)
- 新小結
- 平成26年(2014)5月(所要35場所)
- 21歳7ヶ月(初土俵から6年0ヶ月)
- 最終場所
- 令和3年(2021)11月場所(29歳1ヶ月)
- 大相撲歴
- 80場所(13年6ヶ月)
- 通算成績
- 430勝363敗104休785出場(勝率.548)
- 通算80場所
- 勝ち越し43場所(勝ち越し率.544)(勝ち越し星154)
- 優勝等
- 十両優勝1回,幕下(同点2),序二段優勝1回
- 持給金
- 80円(勝ち越し星154個)
- 幕内戦歴
- 125勝138敗22休259出場(勝率.483)
- 在位19場所(在位率.237)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.421)
- 三役戦歴
- 5勝10敗0休15出場(勝率.333)
- 在位1場所(在位率.013)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 小結戦歴
- 5勝10敗0休15出場(勝率.333)
- 在位1場所(在位率.013)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 前頭戦歴
- 120勝128敗22休244出場(勝率.492)
- 在位18場所(在位率.225)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.444)
- 十両戦歴
- 164勝143敗53休303出場(勝率.541)
- 在位24場所(在位率.300)
- 勝ち越し11場所(勝ち越し率.458)
- 関取戦歴
- 289勝281敗75休562出場(勝率.514)
- 在位43場所(在位率.537)
- 勝ち越し19場所(勝ち越し率.442)
- 幕下以下歴
- 141勝82敗29休223出場(勝率.632)
- 在位36場所(在位率.450)
- 勝ち越し24場所(勝ち越し率.667)
千代鳳 祐樹の更に詳細なデータは力士名鑑で!
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- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(148回 / 33.9%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(99回 / 27.0%)
- ✅ 得意な相手:徳真鵬(9勝0敗 / 勝率1.000)
- ✅ 苦手な相手:美ノ海(0勝10敗 / 勝率.000)
千代大龍 秀政
千代大龍 秀政(ちよたいりゅう ひでまさ)は東京都荒川区出身、九重部屋の元力士で、最高位は小結。
平成23年(2011)5月場所に22歳5ヶ月で初土俵を踏み、令和4年(2022)11月場所を最後に引退(34歳0ヶ月)。
通算成績は463勝483敗50休938出場。生涯勝率.489。通算69場所中、32場所を勝ち越した(勝ち越し率.464)。
主な成績は十両優勝1回。技能賞1回,金星3個(日馬富士2個、稀勢の里1個)。
昭和63年(1988)11月14日生まれ。本名は明月院 秀政。
葛飾区の白鳥相撲教室出身。平成22年(2010)には全国学生相撲選手権大会で優勝を果たして学生横綱のタイトルを獲得、これは元小結垣添に次ぐ日体大2人目の学生横綱だった。幕下15枚目格付出での初土俵は蜂窩織炎のため途中休場となったが、その後3場所連続勝ち越しで十両に昇進、その新十両場所を優勝で飾った。強烈な立ち合いからの叩き込みは「MSP(明月院スペシャル)」と巷で呼ばれる強烈な武器。
令和4年(2022)11月場所8日目の朝に引退届を提出。
- 四股名
- 千代大龍 秀政(ちよたいりゅう ひでまさ)
- 最高位
- 小結
- 出身地
- 東京都荒川区
- 本名
- 明月院 秀政
- 生年月日
- 昭和63年(1988)11月14日
- 出身高校
- 足立新田高校
- 出身大学
- 日本体育大学
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 明月院 秀政 → 千代大龍 秀政
- 初土俵
- 平成23年(2011)5月 幕下15枚目格付出(22歳5ヶ月)
- 新十両
- 平成24年(2012)1月(所要4場所)
- 23歳1ヶ月(初土俵から0年8ヶ月)
- 新入幕
- 平成24年(2012)5月(所要6場所)
- 23歳5ヶ月(初土俵から1年0ヶ月)
- 新小結
- 平成26年(2014)9月(所要20場所)
- 25歳10ヶ月(初土俵から3年4ヶ月)
- 最終場所
- 令和4年(2022)11月(34歳0ヶ月)
- 大相撲歴
- 69場所(11年6ヶ月)
- 通算成績
- 463勝483敗50休938出場(勝率.489)
- 通算69場所
- 勝ち越し32場所(勝ち越し率.464)(勝ち越し星100)
- 優勝等
- 十両優勝1回
- 受賞・金星
- 技能賞1回,金星3個
- 持給金
- 114円50銭(勝ち越し星100個 金星3個)
- 幕内戦歴
- 384勝433敗46休810出場(勝率.470)
- 在位58場所(在位率.841)
- 勝ち越し24場所(勝ち越し率.414)
- 小結戦歴
- 5勝21敗4休25出場(勝率.192)
- 在位2場所(在位率.029)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 前頭戦歴
- 379勝412敗42休785出場(勝率.479)
- 在位56場所(在位率.812)
- 勝ち越し24場所(勝ち越し率.429)
- 十両戦歴
- 63勝42敗0休105出場(勝率.600)
- 在位7場所(在位率.101)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率.714)
- 関取戦歴
- 447勝475敗46休915出場(勝率.485)
- 在位65場所(在位率.942)
- 勝ち越し29場所(勝ち越し率.446)
- 幕下以下歴
- 16勝8敗4休23出場(勝率.667)
- 在位4場所(在位率.058)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.750)
次ページ以降の番付を見る
第11代・九重 雅信 (元横綱・千代ノ山)
在任期間(昭和42年(1967年)1月31日~昭和52年(1977年)10月29日)
千代の山 雅信 (ちよのやま まさのぶ)は北海道松前郡出身、出羽海部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和17年(1942)1月場所に15歳7ヶ月で初土俵を踏み、昭和34年(1959)1月場所を最後に引退(32歳7ヶ月)。
通算成績は403勝158敗147休2分557出場。生涯勝率.724。通算54場所中、39場所を勝ち越した(勝ち越し率.750)。
主な成績は幕内優勝6回(次点6)、十両優勝2回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、金星3個(羽黒山1個、照國1個、田山1個)。
本名は杉村 昌治。大正15年(1926)6月2日生まれ。昭和52年(1977)10月29日逝去(享年51歳)。
部屋の継承を巡って耐え忍んだが出羽海一門からの破門を条件に独立、大関だった北の富士らを連れて九重部屋を興す。
- 四股名
- 千代の山 雅信 (ちよのやま まさのぶ)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 11代九重 雅信(出羽海) → 11代九重 雅信
- 出身地
- 北海道松前郡
- 本名
- 杉村 昌治
- 生年月日
- 大正15年(1926)6月2日
- 没年月日
- 昭和52年(1977)10月29日(享年51歳)
- 所属部屋
- 出羽海部屋
- 改名歴
- 杉村 昌治 → 千代ノ山 昌治 → 千代ノ山 雅信 → 千代の山 雅信
- 初土俵
- 昭和17年(1942)1月 本中(15歳7ヶ月)
- 新十両
- 昭和19年(1944)11月(所要6場所)
- 18歳5ヶ月(初土俵から2年10ヶ月)
- 新入幕
- 昭和20年(1945)11月(所要8場所)
- 19歳5ヶ月(初土俵から3年10ヶ月)
- 新関脇
- 昭和22年(1947)6月(所要10場所)
- 21歳0ヶ月(初土俵から5年5ヶ月)
- 新大関
- 昭和24年(1949)10月(所要16場所)
- 23歳4ヶ月(初土俵から7年9ヶ月)
- 新横綱
- 昭和26年(1951)9月(所要22場所)
- 25歳3ヶ月(初土俵から9年8ヶ月)
- 最終場所
- 昭和34年(1959)1月場所(32歳7ヶ月)
- 大相撲歴
- 54場所(17年0ヶ月)
- 通算成績
- 403勝158敗147休2分557出場(勝率.724)
- 通算54場所
- 勝ち越し39場所(勝ち越し率.750)(勝ち越し星257)
- 優勝等
- 幕内優勝6回(次点6),十両優勝2回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,金星3個(羽黒山1個、照國1個、田山1個)
- 持給金
- 404円50銭(勝ち越し星257個 優勝6回 金星3個)
- 横綱戦歴
- 239勝103敗137休1分337出場(勝率.709)
- 在位32場所(在位率.593)
- 勝ち越し21場所(勝ち越し率.656)
- 大関戦歴
- 67勝23敗0休90出場(勝率.744)
- 在位6場所(在位率.111)
- 勝ち越し6場所(勝ち越し率1.000)
- 幕内戦歴
- 366勝149敗147休2分511出場(勝率.716)
- 在位46場所(在位率.852)
- 勝ち越し33場所(勝ち越し率.717)
- 三役戦歴
- 24勝14敗10休1分39出場(勝率.615)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率.500)
- 関脇戦歴
- 24勝14敗10休1分39出場(勝率.615)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率.500)
- 前頭戦歴
- 36勝9敗0休45出場(勝率.800)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率1.000)
- 十両戦歴
- 14勝3敗0休17出場(勝率.824)
- 在位2場所(在位率.037)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 関取戦歴
- 380勝152敗147休2分528出場(勝率.720)
- 在位48場所(在位率.889)
- 勝ち越し35場所(勝ち越し率.729)
- 幕下以下歴
- 23勝6敗0休29出場(勝率.793)
- 在位4場所(在位率.074)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率1.000)
千代の山 雅信の更に詳細なデータは力士名鑑で!
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:突き出し(75回 / 20.3%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(56回 / 37.6%)
- ✅ 得意な相手:若葉山(11勝0敗 / 勝率1.000)
- ✅ 苦手な相手:鏡里(8勝15敗 / 勝率.348)
第12代・九重 勝昭 (元横綱・北の富士)
在任期間(昭和52年(1977年)10月30日~平成4年(1992年)3月31日)
北の富士 勝昭 (きたのふじ かつあき)は北海道旭川市出身、出羽海 → 九重部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和32年(1957)1月場所に14歳9ヶ月で初土俵を踏み、昭和49年(1974)7月場所を最後に引退(32歳3ヶ月)。
通算成績は784勝426敗69休1205出場。生涯勝率.651。通算105場所中、74場所を勝ち越した(勝ち越し率.718)。
主な成績は幕内優勝10回(同点1 次点3)、十両優勝1回、三段目(同点1)、殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回、金星1個(大鵬1個)。
本名は竹沢 勝昭。昭和17年(1942)3月28日生まれ。令和6年(2024)11月12日逝去(享年82歳)。
長身の美男子として人気を集め、左四つからのキレのある速攻相撲で大相撲ファンを魅了した第52代横綱である。玉の海と共に「北玉時代」と呼ばれる一時代を築き、引退後は九重親方として千代の富士と北勝海の2人の横綱を育て上げた。相撲協会退職後もNHKの大相撲中継で歯に衣着せぬ解説で長く愛された、昭和から令和にかけて相撲界を輝かせ続けた大輪の華であった。
船酔いと猛稽古の下積み時代
北海道網走郡美幌町に生まれ、留萌市で育つ。幼少期から野球少年であり、中学時代は軟式野球の主力投手として活躍していた。相撲との出会いは、北海道巡業に訪れていた当時の横綱・千代の山(のちの11代九重)から「相撲をやって東京見物をしないか?」と直々に声をかけられたことがきっかけである。この言葉で角界への興味を抱き、中学校卒業と同時に名門・出羽海部屋の門を叩いた。
しかし、上京時の青函連絡船で酷い船酔いに見舞われて体重が激減し、新弟子検査で体重不足として不合格になってしまう。特例である「自費養成力士」として辛くも前相撲に進み、昭和32年(1957年)1月場所に本名の「竹沢」で初土俵を踏んだ。細身であったため出世は遅れ、「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業」という規約に抵触しかけるほど下積みが長引いた。
昭和34年(1959年)5月場所でようやく三段目に昇進し、四股名を「竹美山」へ改名。しかし、同年の夏巡業中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発してしまう。50日間もの入院生活を余儀なくされ、一度は力士を辞めることも考えた。それでも、後援者の勧めで四股名を「北の冨士」と改めてからは心機一転し、本来の素質を開花させていく。
新十両からドタバタの大関昇進
地道に番付を上げ、昭和38年(1963年)3月場所で念願の新十両昇進を果たし、ついに関取の座を掴んだ。関取となってからは持ち前の相撲が冴え渡り、同年11月場所では十両で史上3人目となる15戦全勝優勝を達成する。翌昭和39年(1964年)1月場所の新入幕では13勝2敗を挙げ、新入幕力士としての最多勝新記録を打ち立てて敢闘賞を受賞した。
翌3月場所で一気に新小結へと昇進、同年7月場所で新関脇へと昇進し、その取り口は「スピード相撲」と称された。「腰高を直すか、スピードをつけるか」と問われた際に自らスピードを選び抜いた結果であり、立合いのかち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げや外掛けを交えた躍動感ある相撲を武器とした。勢いに乗ると手がつけられない強さを見せる反面、守勢に回ると無謀な首投げや二丁投げを打ってかえって体勢を崩す脆さも併せ持っていたが、その華麗でスピーディーな取り口は大いにファンを沸かせた。
こうして三役と平幕を往復しながらも地力を蓄え、昭和41年(1966年)7月場所後、大関昇進を果たす。しかし、昇進直前3場所の成績が合計28勝17敗であり、当時の基準でも「まさか大関に昇進するとは思っていなかった」ため、本人は伝達式の朝も熟睡していた。部屋の床山に叩き起こされて初めて事態を把握したが、本来立ち会うべき師匠(8代出羽海夫妻)すらも昇進を想定しておらず、外出して留守であった。そのため、急遽兄弟子の佐田の山が師匠代理を務めるという異例の事態となり、何の準備もしていなかった北の冨士は、慌てて佐田の山から紋付きを、足のサイズが同じだった伊勢ノ海部屋の柏戸からは足袋を借りて急場を凌ぎ、伝達式に臨んだ。
破門と独立、そして初優勝
大関として順調に土俵を務めていた昭和42年(1967年)1月場所後、相撲人生を揺るがす大きな転機が訪れる。恩師である11代九重(千代の山)が、常陸山以来の「分家独立不許」という厳しい不文律に悩みながらも、出羽海部屋からの分家独立を申し出ていたのである。「角界入りのきっかけを作ってくれた九重か、育ててくれた出羽海か」。大きな恩義の板挟みとなり深く思い悩んだが、最終的に九重と行動を共にすることを選んだ。弟子13名中10名までを連れての独立は許されたものの、弟子もろとも出羽海一門からは破門され、高砂一門へ移籍するという苦渋の決断であった。独立当初は経営も苦しく、九重と布団を譲り合う時期もあったという。
こうして、高砂一門に合流して迎えた同年3月場所、北の冨士は土俵上で恩返しを果たす。かつての兄弟子であった横綱・佐田の山を破る活躍を見せ、14勝1敗で悲願の幕内初優勝を飾ったのである。
しかし、初の綱取りがかかった翌5月場所は緊張と稽古不足から5勝10敗と大きく負け越し、翌場所も7勝8敗と2場所連続で負け越してしまう。当時は3場所連続負け越しで角番だったため、初の大関角番で迎えた昭和42年(1967年)9月場所は心機一転、四股名をうかんむりの「北の富士」に改めて臨み、10勝5敗で終えてなんとか角番を脱した。
「北玉時代」と親友の急死
大の稽古嫌いで知られていたが、入門前に1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた恩人が余命幾許もない状況となり、その恩人から「お前が綱を張ることを信じている」と激励されたことで発奮し、人が変わったように猛稽古に打ち込むようになる。良きライバルである片男波部屋の玉乃島(のちの横綱・玉の海)と切磋琢磨し、昭和45年(1970年)1月場所後に横綱審議委員会を経て、玉の海と共に同時に横綱へと推挙された。大関在位21場所での横綱昇進は当時の最長記録であった。
同時昇進した両者は激しく覇を競い合い、大相撲史に輝く「北玉時代」を築き上げた。土俵外では「北さん」「島ちゃん」と呼び合う親友であり、横綱会の余興では玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を披露するなど、新時代の横綱像を見せた。しかし、昭和46年(1971年)10月、玉の海が虫垂炎手術後の急性冠症候群により突然この世を去る。巡業先で訃報を聞いた北の富士は人目をはばからず号泣し、翌11月場所で優勝を果たした際には、パレードを後回しにして玉の海の四十九日法要へ駆けつけた。
不眠症休場と現役引退
一人横綱となってからは、貴ノ花(初代)との取組で「つき手か、かばい手か」「勇み足か」と、二場所連続して同じ顔合わせで立行司が差し違えるという、大相撲史に残る取組をみせるなど孤軍奮闘を繰り広げた。
一方で、極度のスランプに陥った昭和47年(1972年)5月場所では、身体に怪我がないため医師に「最近寝付きが悪い」と答えて「不眠症」の診断書をもらい途中休場。さらに休場中にハワイ旅行をしていたことが発覚して厳重注意を受けるなど、豪放磊落な一面も見せた。
その後も復活優勝を果たすなど健在ぶりを示したが、次第に右膝などの怪我が重なり、昭和49年(1974年)7月場所の2日目に敗れた直後、「体力の限界」を理由に引退を表明した。引退会見では、過去の不眠症の逸話にかけるように「昨夜はよく眠れましたよ。きょうから相撲がないので思い切り飲んだ」と笑ってみせたが、報道を見て引退を自覚したその夜は、本当に眠れなかったという。
名伯楽、そして名解説者として
引退後は13代井筒を襲名し、プレハブ小屋に若い力士たちと枕を並べて寝泊まりし部屋を興した。時にはちゃんこ代にも事欠き、マネージャーと近くの中川でハゼを釣り、天ぷら丼にして腹をすかせた弟子たちに食べさせるなど、愛情と苦労を重ねて部屋を切り盛りした。その甲斐あって部屋創設から2年で弟子は20人程度に増え、関取予備軍も順調に育った。昭和52年(1977年)に11代九重が没すると、自身の部屋と合同させる形で九重部屋を継承。弟弟子であった千代の富士と、直弟子の北勝海を昭和の大横綱へと育て上げた。その指導法は「ガミガミ言わず、反発心を起こさせてやる気を引き出すコツを知っている」と千代の富士から高く評価されている。
平成10年(1998年)、相撲協会の理事選を巡る派閥争いの末に日本相撲協会を退職。その後はNHK大相撲中継の専属解説者となり、愛のある辛口と軽妙洒脱な語り口で絶大な人気を博した。還暦を迎えた際には、協会を退職していたので国技館は使えなかったが、都内のホテルで千代の富士と北勝海を従えて還暦土俵入りを披露している。
平成28年(2016年)に千代の富士が61歳で急逝した際には、「何でだろうねえ、強い順番で逝っちゃうんだ…」と深いショックを隠せず、「これは、もう若いも何も…千代の富士本人が一番悔しいでしょう」と悲痛な追悼のコメントを残した。
自身は横綱経験者の最長寿記録(83歳)の更新に意欲を見せていたが、令和5年(2023年)春から体調を崩して解説を休業。令和6年(2024年)11月12日、東京都内の病院で82歳の華やかな生涯を閉じた。棺には、解説者としての誇りである原稿用紙とボールペン、そして愛用した国語辞典が納められたという。
同年12月18日、八角部屋にて「北の富士さんをしのぶ会」が営まれた。式典内で、直弟子である八角理事長(元横綱・北勝海)は「本日は親方と呼ばせていただきます」と語り始めると、目頭をおさえて声を詰まらせながら「14歳で親方に出会えたこと、そのお陰で今の私があります」と、恩師への深い感謝と別れの言葉を捧げた。
- 四股名
- 北の富士 勝昭 (きたのふじ かつあき)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 13代井筒 勝昭(九重) → 13代井筒 勝昭 → 12代九重 勝昭 → 18代陣幕 純樹(九重) → 18代陣幕 純樹(八角) → 18代陣幕 克昭(八角)
- 出身地
- 北海道旭川市
- 本名
- 竹沢 勝昭
- 生年月日
- 昭和17年(1942)3月28日
- 没年月日
- 令和6年(2024)11月12日(享年82歳)
- 所属部屋
- 出羽海 → 九重部屋
- 改名歴
- 竹沢 勝昭 → 竹美山 勝明 → 北の冨士 勝明 → 北の富士 勝明 → 北の富士 洋行 → 北の富士 勝昭 → 北の富士 勝晃 → 北の富士 勝昭
- 初土俵
- 昭和32年(1957)1月 前相撲(14歳9ヶ月)
- 新十両
- 昭和38年(1963)3月(所要36場所)
- 20歳11ヶ月(初土俵から6年2ヶ月)
- 新入幕
- 昭和39年(1964)1月(所要41場所)
- 21歳9ヶ月(初土俵から7年0ヶ月)
- 新小結
- 昭和39年(1964)3月(所要42場所)
- 21歳11ヶ月(初土俵から7年2ヶ月)
- 新関脇
- 昭和39年(1964)7月(所要44場所)
- 22歳3ヶ月(初土俵から7年6ヶ月)
- 新大関
- 昭和41年(1966)9月(所要57場所)
- 24歳5ヶ月(初土俵から9年8ヶ月)
- 新横綱
- 昭和45年(1970)3月(所要78場所)
- 27歳11ヶ月(初土俵から13年2ヶ月)
- 最終場所
- 昭和49年(1974)7月場所(32歳3ヶ月)
- 大相撲歴
- 105場所(17年6ヶ月)
- 通算成績
- 784勝426敗69休1205出場(勝率.651)
- 通算105場所
- 勝ち越し74場所(勝ち越し率.718)(勝ち越し星425)
- 優勝等
- 幕内優勝10回(同点1 次点3),十両優勝1回,三段目(同点1)
- 受賞・金星
- 殊勲賞2回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個(大鵬1個)
- 持給金
- 599円50銭(勝ち越し星425個 優勝10回 金星1個)
- 横綱戦歴
- 247勝84敗62休326出場(勝率.758)
- 在位27場所(在位率.257)
- 勝ち越し20場所(勝ち越し率.741)
- 大関戦歴
- 208勝107敗0休315出場(勝率.660)
- 在位21場所(在位率.200)
- 勝ち越し19場所(勝ち越し率.905)
- 幕内戦歴
- 592勝294敗62休881出場(勝率.672)
- 在位64場所(在位率.610)
- 勝ち越し52場所(勝ち越し率.812)
- 三役戦歴
- 89勝76敗0休165出場(勝率.539)
- 在位11場所(在位率.105)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.727)
- 関脇戦歴
- 75勝60敗0休135出場(勝率.556)
- 在位9場所(在位率.086)
- 勝ち越し7場所(勝ち越し率.778)
- 小結戦歴
- 14勝16敗0休30出場(勝率.467)
- 在位2場所(在位率.019)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.500)
- 前頭戦歴
- 48勝27敗0休75出場(勝率.640)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率1.000)
- 十両戦歴
- 49勝26敗0休75出場(勝率.653)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 関取戦歴
- 641勝320敗62休956出場(勝率.671)
- 在位69場所(在位率.657)
- 勝ち越し56場所(勝ち越し率.812)
- 幕下以下歴
- 143勝106敗7休249出場(勝率.574)
- 在位34場所(在位率.324)
- 勝ち越し18場所(勝ち越し率.529)
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- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(151回 / 23.4%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(69回 / 21.4%)
- ✅ 得意な相手:清國(39勝15敗 / 勝率.722)
- ✅ 苦手な相手:大鵬(5勝26敗 / 勝率.161)
第13代・九重 貢 (元横綱・千代の富士)
在任期間(平成4年(1992年)4月1日~平成28年(2016年)7月31日)
千代の富士 貢 (ちよのふじ みつぐ)は北海道松前郡福島町出身、九重部屋の元力士で、最高位は横綱。
昭和45年(1970)9月場所に15歳3ヶ月で初土俵を踏み、平成3年(1991)5月場所を最後に引退(35歳11ヶ月)。
通算成績は1045勝437敗170休1473出場。生涯勝率.709。通算125場所中、96場所を勝ち越した(勝ち越し率.774)。
主な成績は幕内優勝31回(次点11)、幕下優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回、金星3個(重ノ海2個、若乃花1個)。
本名は秋元 貢。昭和30年(1955)6月1日生まれ。平成28年(2016)7月31日逝去(享年61歳)。
幕内最高優勝31回、通算勝星1045勝、53連勝など数々の大記録を打ち立て、昭和から平成にかけて相撲界に一時代を築いた第58代横綱である。引き締まった肉体と精悍な顔立ちから「ウルフ」の愛称で親しまれ、大相撲界で初となる国民栄誉賞を受賞した。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いたが、一直線にのぼりつめたエリートではなく、新入幕後に幕下陥落を経験した苦労人でもある。
麻酔切れの手術と飛行機への憧れ
北海道松前郡福島町に生まれ、幼少期から漁師である父親の手伝いをして自然に足腰を鍛え上げた。抜群の運動神経を持ち、中学時代は走り高跳びや三段跳びで松前郡大会で優勝するなど、「オリンピック選手にもなれる」と評されるほどであったが、本人は相撲が大嫌いであった。
転機となったのは中学1年生の時である。盲腸炎の手術を受けた際、腹の筋肉が厚すぎて手術が長引き、途中で麻酔が切れてしまったが、それに必死に耐える姿を見た病院長の紹介により、11代九重(元横綱・千代の山)から直々の勧誘を受けることとなった。当初は本人も両親も猛反対して断ったが、「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでもやってみて、後のことを考えたらどうだ?」と熱心に誘い続ける11代九重の言葉に、どうしても飛行機に乗りたかった貢は入門を決意する。
上京して九重部屋を訪れた際、まだ現役であった横綱・北の富士(のちの12代九重)と対面している。当時について12代九重は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった」と振り返っている。
昭和45年(1970年)9月場所、中学3年生にして本名の「秋元」で初土俵を踏んだ。翌11月場所で序ノ口につき「大秋元」と改名。昭和46年(1971年)1月場所に序二段へ昇進すると、11代九重の四股名である「千代の山」と、同部屋の先輩横綱「北の富士」から一文字ずつを取って「千代の冨士(のちに千代の富士)」と命名された。師匠からそれだけの大器と見込まれての四股名であった。
脱臼との闘いと「筋肉の鎧」
幕下時代までは、類い稀な運動神経を生かした力任せの強引な投げ技を多用していた。小兵ながら気性の激しさを見せる取り口で順調に出世し、昭和49年(1974年)11月場所には19歳5ヶ月にして新十両へ昇進、四股名をうかんむりの「千代の富士」に改めた。この頃、ちゃんこ番として魚を捌いている姿を見た11代九重から「狼みたいだな」と言われ、以降「ウルフ」という異名が定着していく。
昭和50年(1975年)9月場所では、昭和30年代生まれの力士として第1号となる新入幕を果たす。しかし、強引な投げ技は先天的に関節のかみ合わせが浅かった左肩へ大きな負担をかけており、この頃から「肩の脱臼癖」という致命的な弱点が顕在化し始めた。相撲の粗さもあって幕下へ陥落するなど、入幕前後の時期にかけて公式戦だけで7回、部屋での稽古も含めれば10回を超える脱臼を繰り返し、2年間の十両生活を強いられることとなる。
昭和52年(1977年)10月に11代九重が逝去し、12代九重(北の富士)が部屋を継承する。新師匠から「脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲」を徹底的に叩き込まれたことで脱臼は幾分治まり、昭和53年(1978年)1月場所に再入幕を果たした。同年5月場所には大関・貴ノ花を会心の相撲で破って9勝を挙げ、初の三賞となる敢闘賞を受賞。同年7月場所には新小結へと昇進した。
しかし、幕内定着が見えてきた昭和54年(1979年)3月場所で右肩を脱臼し、全治1年〜2年という重大な怪我を負ってしまう。診察で「肩関節の臼が左右とも普通の人の3分の2しかない」ことが判明し、医師から「手術をせずに2ヶ月で治したいなら、筋力トレーニングを行って肩の周辺を筋肉で固めなさい」との助言を受けた。これを機に、1日500回の腕立て伏せやウエイトトレーニングをいち早く導入し、「筋肉の鎧」を身に纏うことで肩を保護する画期的な怪我防止策を見出した。
同年5月場所は西十両2枚目へ下がり、公傷制度を利用して治療に専念する予定であったが、担当親方の書類提出忘れという不手際により公傷が認められない事態となる。休場し続ければ幕下陥落の危機であったため、3日目から強行出場して9勝を挙げ、同年7月場所での幕内復帰を掴み取った。以降は、肩の脱臼を防ぐため「前廻しを取ってからの一気の寄り」という新しい形を完成させ、昭和55年(1980年)3月場所からは幕内上位に定着した。
ウルフフィーバーと大横綱への道
昭和55年(1980年)9月場所には小結の地位で横綱・北の湖の連勝を24で止め、初の2桁勝利(10勝)を記録。翌11月場所で新関脇に昇進し、11勝4敗の好成績を挙げて大関昇進の機運を高めた。
昭和56年(1981年)1月場所、西関脇の地位で初日から14連勝の快進撃を見せる。千秋楽の本割で北の湖に敗れて全勝優勝は逃したものの、直後の優勝決定戦において、本割で吊り出された際に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて立てた作戦が見事に的中し、右からの上手出し投げで北の湖を下して待望の幕内初優勝を果たした。この瞬間のテレビ最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている。土俵下の審判委員として控えていた師匠の12代九重も「初優勝した時は、姿を見て涙が出ましたから」と回顧するほど劇的な勝利であり、場所後に大関へと昇進した。
大関昇進後も勢いは止まらず、同年7月場所では千秋楽で再び北の湖を破り、14勝1敗で2度目の優勝を飾った。7年間横綱に君臨していた北の湖を破って賜杯を手にしたこの一番は「覇者交代の一番」と位置付けられており、場所後の横綱審議委員会では満場一致で推挙され、第58代横綱への昇進を果たす。この年は関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を打ち立て、その精悍なルックスと豪快な相撲から「ウルフフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。
53連勝と国民栄誉賞
横綱昇進後は圧倒的な強さで賜杯を重ね、数々の大記録を打ち立てていく。体格で上回る相手に対し、凄まじい集中力と研究熱心さで挑んだ。本場所で負けた相手には自ら出向いて稽古し、攻略法を身につけた。「横綱になったら勝った相撲は新聞に載せてもらえない。それなら勝っても取り上げてもらえるような相撲を取ろう」という思いから編み出された、相手の頭を抑えつけるような強烈な上手投げは「ウルフスペシャル」と称され、ファンを熱狂させた。また、横綱土俵入りは四股が非常に美しく、上げた足が頭より高い位置に達するなど、類い稀な運動能力と几帳面な礼儀作法を土俵上で体現し続けた。
昭和63年(1988年)5月場所の7日目から同年11月場所の14日目にかけては、昭和以降において双葉山に次ぐ歴代2位となる53連勝を記録した。平成元年(1989年)9月場所では、通算勝ち星で大鵬を抜いて歴代単独1位(当時)となる通算873勝目を達成し、相撲界で初となる国民栄誉賞を授与された。30代半ばを迎えてもなお第一線で君臨し続け、幾度も綱の権威を示した。
引退と名門・九重部屋の継承
平成2年(1990年)11月場所には史上初の通算1000勝を達成し、結果的に最後となる31度目の幕内最高優勝を飾った。しかし、肉体はすでに限界に近づいていた。平成3年(1991年)1月場所の初日に幕内通算805勝(当時単独1位)を達成するも、翌日に左腕を負傷して途中休場し、翌場所も全休を余儀なくされる。
復帰を懸けた同年5月場所、初日に当時18歳の新鋭・貴花田(のちの横綱・貴乃花)と対戦するが、まわしを取れず寄り切りで敗れた。続く2日目の板井戦には勝利したものの納得のいく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだが、とったりを受けて完敗を喫した。その日の夜に緊急記者会見を開き、「体力の限界、気力もなくなり引退することになりました」との言葉を残して現役引退を表明した。横綱昇進の夜、師匠から「辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言われたその言葉通りの、潔い幕引きであった。
引退にあたり相撲協会からは一代年寄を打診されたが、「部屋を一代限りで終えたくない」とこれを辞退。年寄・陣幕を襲名し、平成4年(1992年)には12代九重と名跡を交換する形で13代九重を襲名して九重部屋を継承した。師匠として大関・千代大海など多くの関取を育成し、日本相撲協会の理事としても多方面で手腕を振るった。
平成27年(2015年)5月31日には、両国国技館にて現役横綱を従えて還暦土俵入りを行った。しかしこの頃からがんによる闘病生活が始まり、平成28年(2016年)7月31日、膵臓がんのため61歳で逝去した。弔問に訪れた前師匠の北の富士は「穏やかな表情だった。千代の富士とは縁もあって、横綱になってくれて先代に面目が立った」と、不世出の大横綱の死を悼んだ。
- 四股名
- 千代の富士 貢 (ちよのふじ みつぐ)
- 最高位
- 横綱
- 年寄名跡
- 17代陣幕 貢(九重) → 13代九重 貢
- 出身地
- 北海道松前郡福島町
- 本名
- 秋元 貢
- 生年月日
- 昭和30年(1955)6月1日
- 没年月日
- 平成28年(2016)7月31日(享年61歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 秋元 貢 → 大秋元 貢 → 千代の冨士 貢 → 千代の富士 貢
- 初土俵
- 昭和45年(1970)9月 前相撲(15歳3ヶ月)
- 新十両
- 昭和49年(1974)11月(所要25場所)
- 19歳5ヶ月(初土俵から4年2ヶ月)
- 新入幕
- 昭和50年(1975)9月(所要30場所)
- 20歳3ヶ月(初土俵から5年0ヶ月)
- 新小結
- 昭和53年(1978)7月(所要47場所)
- 23歳1ヶ月(初土俵から7年10ヶ月)
- 新関脇
- 昭和55年(1980)11月(所要61場所)
- 25歳5ヶ月(初土俵から10年2ヶ月)
- 新大関
- 昭和56年(1981)3月(所要63場所)
- 25歳9ヶ月(初土俵から10年6ヶ月)
- 新横綱
- 昭和56年(1981)9月(所要66場所)
- 26歳3ヶ月(初土俵から11年0ヶ月)
- 最終場所
- 平成3年(1991)5月場所(35歳11ヶ月)
- 大相撲歴
- 125場所(20年8ヶ月)
- 通算成績
- 1045勝437敗170休1473出場(勝率.709)
- 通算125場所
- 勝ち越し96場所(勝ち越し率.774)(勝ち越し星670)
- 優勝等
- 幕内優勝31回(次点11),幕下優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞5回,金星3個(重ノ海2個、若乃花1個)
- 持給金
- 1450円(勝ち越し星670個 優勝31回 金星3個)
- 横綱戦歴
- 625勝112敗148休730出場(勝率.856)
- 在位59場所(在位率.472)
- 勝ち越し49場所(勝ち越し率.831)
- 大関戦歴
- 38勝7敗0休45出場(勝率.844)
- 在位3場所(在位率.024)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率1.000)
- 幕内戦歴
- 807勝253敗155休1052出場(勝率.767)
- 在位81場所(在位率.648)
- 勝ち越し64場所(勝ち越し率.790)
- 三役戦歴
- 46勝29敗0休75出場(勝率.613)
- 在位5場所(在位率.040)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.600)
- 関脇戦歴
- 25勝5敗0休30出場(勝率.833)
- 在位2場所(在位率.016)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 小結戦歴
- 21勝24敗0休45出場(勝率.467)
- 在位3場所(在位率.024)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.333)
- 前頭戦歴
- 98勝105敗7休202出場(勝率.485)
- 在位14場所(在位率.112)
- 勝ち越し9場所(勝ち越し率.643)
- 十両戦歴
- 130勝120敗5休249出場(勝率.522)
- 在位17場所(在位率.136)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.706)
- 関取戦歴
- 937勝373敗160休1301出場(勝率.720)
- 在位98場所(在位率.784)
- 勝ち越し76場所(勝ち越し率.776)
- 幕下以下歴
- 108勝64敗10休172出場(勝率.628)
- 在位26場所(在位率.208)
- 勝ち越し20場所(勝ち越し率.769)
千代の富士 貢の更に詳細なデータは力士名鑑で!
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- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(392回 / 41.4%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(131回 / 35.0%)
- ✅ 得意な相手:巨砲(37勝4敗 / 勝率.902)
- ✅ 苦手な相手:北の湖(6勝12敗 / 勝率.333)
第14代・九重 龍二 (元大関・千代大海)
在任期間(平成28年(2016年)8月3日~ )
千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ)は大分県大分市出身、九重部屋の元力士で、最高位は大関。
平成4年(1992)11月場所に16歳6ヶ月で初土俵を踏み、平成22年(2010)1月場所を最後に引退(33歳8ヶ月)。
通算成績は771勝528敗115休1288出場。生涯勝率.594。通算104場所中、76場所を勝ち越した(勝ち越し率.738)。
主な成績は幕内優勝3回(同点1,次点6),十両優勝2回,三段目優勝1回,序ノ口優勝1回。殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個(貴乃花1個)。
昭和51年(1976)4月29日生まれ。本名は須藤 龍二。
13代九重(千代の富士)が育てた初の幕内力士、入幕9場所目の初優勝で大関に昇進。大関在位65場所は魁皇と共に歴代1位。千代の富士の急逝によって九重部屋を継承。
- 年寄名跡
- 14代・九重 龍二
- 四股名
- 千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ)
- 最高位
- 大関
- 年寄名跡
- 20代佐ノ山 龍二 → 14代九重 龍二
- 出身地
- 大分県大分市
- 本名
- 廣嶋 龍二→須藤 龍二
- 生年月日
- 昭和51年(1976)4月29日(50歳)
- 所属部屋
- 九重部屋
- 改名歴
- 廣嶋 龍二 → 千代大海 龍二
- 初土俵
- 平成4年(1992)11月 前相撲(16歳6ヶ月)
- 新十両
- 平成7年(1995)7月(所要16場所)
- 19歳2ヶ月(初土俵から2年8ヶ月)
- 新入幕
- 平成9年(1997)9月(所要29場所)
- 21歳4ヶ月(初土俵から4年10ヶ月)
- 新小結
- 平成10年(1998)5月(所要33場所)
- 22歳0ヶ月(初土俵から5年6ヶ月)
- 新関脇
- 平成10年(1998)7月(所要34場所)
- 22歳2ヶ月(初土俵から5年8ヶ月)
- 新大関
- 平成11年(1999)3月(所要38場所)
- 22歳10ヶ月(初土俵から6年4ヶ月)
- 最終場所
- 平成22年(2010)1月(33歳8ヶ月)
- 大相撲歴
- 104場所(17年2ヶ月)
- 通算成績
- 771勝528敗115休1288出場(勝率.594)
- 通算104場所
- 勝ち越し76場所(勝ち越し率.738)(勝ち越し星324)
- 優勝等
- 幕内優勝3回(同点1,次点6),十両優勝2回,三段目優勝1回,序ノ口優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞1回,技能賞3回,金星1個
- 持給金
- 286円(勝ち越し星324個 優勝3回 金星1個)
- 幕内戦歴
- 597勝402敗115休988出場(勝率.598)
- 在位75場所(在位率.721)
- 勝ち越し54場所(勝ち越し率.720)
- 大関戦歴
- 515勝345敗115休850出場(勝率.599)
- 在位65場所(在位率.625)
- 勝ち越し46場所(勝ち越し率.708)
- 三役戦歴
- 51勝28敗0休78出場(勝率.646)
- 在位6場所(在位率.058)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率.833)
- 関脇戦歴
- 43勝21敗0休63出場(勝率.672)
- 在位5場所(在位率.048)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 小結戦歴
- 8勝7敗0休15出場(勝率.533)
- 在位1場所(在位率.010)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率1.000)
- 前頭戦歴
- 31勝29敗0休60出場(勝率.517)
- 在位4場所(在位率.038)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.750)
- 十両戦歴
- 104勝91敗0休195出場(勝率.533)
- 在位13場所(在位率.125)
- 勝ち越し10場所(勝ち越し率.769)
- 関取戦歴
- 701勝493敗115休1183出場(勝率.587)
- 在位88場所(在位率.846)
- 勝ち越し64場所(勝ち越し率.727)
- 幕下以下歴
- 70勝35敗0休105出場(勝率.667)
- 在位15場所(在位率.144)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.800)