受賞回数は、1位が豪栄道で11回(殊勲賞5回・技能賞3回・敢闘賞3回)、2位が前乃山で5回(殊勲賞3回・敢闘賞2回)、3位が勢と佐田の海の2人で4回ずつとなっています。4位以下含む全順位の詳細は、以下の表をご覧ください。
大正11年(1922)5月場所で5度目の優勝を果たした大錦はまだまだ全盛期でした。しかし翌年1月に力士養老金などをめぐり協会と力士会の間で対立が起きるたことが大錦の力士人生を大きく変えてしまいます。
大正12年1月9日に行われた力士会の総会で力士養老金の倍増要求が出ましたが協会側はこれを却下、これを不服とした関脇以下の力士たちは三河島の工場に立て籠り1月場所をボイコットする「三河島事件」が勃発してしまいます。
協会は残った力士たちだけで春場所を開催しようとするも行き詰まり、力士の長として大錦は立行司たちと共に調停に向かいます。しかし、なかなか聞き入れてもらえないまま話はまとまらず、最終的にはときの警視総監までが調停に乗り出し、ようやく力士たちの態度は軟化して1月場所は開催されることになりました。
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該当力士:44 名
第26代横綱 大錦 夘一郎
大錦 夘一郎 (おおにしき ういちろう)は大阪府大阪市出身、出羽海部屋の元力士で、最高位は第26代横綱。
明治43年(1910)1月場所に18歳1ヶ月で初土俵を踏み、大正12年(1923)1月場所を最後に引退(31歳1ヶ月)。
通算成績は134勝16敗32休3分2預155出場。生涯勝率.865。通算27場所中、17場所を勝ち越した(勝ち越し率.654)。
主な成績は幕内優勝5回(次点4)、十両優勝1回、序二段優勝1回。
本名は細川 夘一郎。明治24年(1891)11月25日生まれ。昭和16年(1941)5月13日逝去(享年49歳)。
無敵の太刀山を破る活躍で入幕わずか6場所で横綱へと昇進。
- 四股名
- 大錦 夘一郎 (おおにしき ういちろう)
- 最高位
- 第26代横綱
- 出身地
- 大阪府大阪市
- 本名
- 細川 夘一郎
- 生年月日
- 明治24年(1891)11月25日
- 没年月日
- 昭和16年(1941)5月13日(享年49歳)
- 所属部屋
- 出羽海部屋
- 改名歴
- 大錦 夘一郎
- 初土俵
- 明治43年(1910)1月 前相撲(18歳1ヶ月)
- 新十両
- 大正3年(1914)1月(所要8場所)
- 22歳1ヶ月(初土俵から4年0ヶ月)
- 新入幕
- 大正4年(1915)1月(所要10場所)
- 23歳1ヶ月(初土俵から5年0ヶ月)
- 新小結
- 大正4年(1915)6月(所要11場所)
- 23歳6ヶ月(初土俵から5年5ヶ月)
- 新大関
- 大正5年(1916)1月(所要12場所)
- 24歳1ヶ月(初土俵から6年0ヶ月)
- 新横綱
- 大正6年(1917)5月(所要15場所)
- 25歳5ヶ月(初土俵から7年4ヶ月)
- 最終場所
- 大正12年(1923)1月場所(31歳1ヶ月)
- 大相撲歴
- 27場所(13年0ヶ月)
- 通算成績
- 134勝16敗32休3分2預155出場(勝率.865)
- 通算27場所
- 勝ち越し17場所(勝ち越し率.654)(勝ち越し星118)
- 優勝等
- 幕内優勝5回(次点4),十両優勝1回,序二段優勝1回
- 横綱戦歴
- 77勝9敗31休3分89出場(勝率.865)
- 在位12場所(在位率.444)
- 勝ち越し9場所(勝ち越し率.750)
- 大関戦歴
- 25勝5敗0休30出場(勝率.833)
- 在位3場所(在位率.111)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率1.000)
- 幕内戦歴
- 119勝16敗32休3分138出場(勝率.862)
- 在位17場所(在位率.630)
- 勝ち越し14場所(勝ち越し率.824)
- 三役戦歴
- 9勝1敗0休10出場(勝率.900)
- 在位1場所(在位率.037)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率1.000)
- 小結戦歴
- 9勝1敗0休10出場(勝率.900)
- 在位1場所(在位率.037)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率1.000)
- 前頭戦歴
- 8勝1敗1休9出場(勝率.889)
- 在位1場所(在位率.037)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率1.000)
- 十両戦歴
- 10勝0敗0休2預12出場(勝率.833)
- 在位2場所(在位率.074)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 関取戦歴
- 129勝16敗32休3分2預150出場(勝率.860)
- 在位19場所(在位率.704)
- 勝ち越し16場所(勝ち越し率.842)
- 幕下以下歴
- 5勝0敗0休5出場(勝率1.000)
- 在位7場所(在位率.259)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.143)
大錦 夘一郎の更に詳細なデータは力士名鑑で!
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 得意な相手:大戸平(9勝1敗 / 勝率.900)
- ✅ 苦手な相手:太刀山(1勝2敗 / 勝率.333)
前乃山 太郎
前の山 太郎 (まえのやま たろう)は大阪府守口市出身、高砂部屋の元力士で、最高位は大関。
昭和36年(1961)3月場所に16歳0ヶ月で初土俵を踏み、昭和49年(1974)3月場所を最後に引退(29歳0ヶ月)。
通算成績は487勝397敗48休880出場。生涯勝率.553。通算79場所中、54場所を勝ち越した(勝ち越し率.711)。
主な成績は幕内(同点1 次点1)、十両優勝1回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、金星1個(柏戸1個)。
本名は金島 和一→中矢 和一→清水 和一。昭和20年(1945)3月9日生まれ。令和3年(2021)3月11日逝去(享年76歳)。
前の山は、恵まれた長身と気迫あふれる突き押しを武器に大関まで昇進した力士である。新大関昇進直後に見舞われた右足の故障により大関在位は短期間に留まったものの、気迫あふれる取り口で長らく幕内の土俵を務めた。引退後は年寄・高田川として自らの部屋を創設し、弟子の育成にあたった。
相撲部への転部と高砂部屋への入門
浪商高校入学直後までは野球部に所属していたが、恵まれた体格を見込まれて相撲部へと転部する。大阪府の相撲大会に出場して活躍したことで自信を深め、高校を1年で中退して兄と共に高砂部屋へ入門し、昭和36年(1961年)3月場所で初土俵を踏んだ。しかし、初土俵直後の稽古で左腕を故障して序ノ口を休場し、同年7月場所から番付外で再出発することとなった。
再出世と高見山の入門による奮起
当初は相撲界の厳しい礼儀や上下関係に馴染めずに脱走を繰り返し、計7回も部屋から逃げ出しては警察に捜索願を出されることもあった。一時は廃業も考えたが、ハワイから入門してきた高見山の存在に大きな刺激を受け、師匠である4代高砂(元横綱・前田山)の励ましもあって奮起する。また、幕下時代に後援者の宴席で横綱・大鵬と同席した際、「まだ幕下なのにこんな遅くまで遊んでいてはいけない。早く帰れ」と諭され、多額の小遣いを渡された逸話も残っている。
幕内定着と大鵬からの初白星
稽古に身を入れるようになってからは着実に番付を上げ、昭和40年(1965年)11月場所で新十両へ昇進し、昭和41年(1966年)11月場所で新入幕を果たした。均整のとれた体躯から繰り出す師匠譲りの張り手を交えた猛突っ張りと、左差しから右をおっつける力強い相撲を武器に活躍する。昭和43年(1968年)3月場所で新三役となる関脇へと昇進し、その後は三役に定着した。昭和44年(1969年)9月場所の10日目には、立合いの強烈な張り手で大鵬の動きを止め、一気に押し出して10度目の挑戦で初勝利を挙げ、かつて宴席で諭してくれた大横綱への「恩返し」を果たした。
大関昇進と直後の右足骨折
昭和45年(1970年)7月場所では13勝2敗の好成績を挙げ、横綱・北の富士との優勝決定戦には敗れたものの、場所後の理事会で大関昇進が決定した。しかし、新大関として迎える場所直前の稽古において右足を故障する重傷を負ってしまう。この負傷により同年9月場所の全休を余儀なくされ、以降はこの怪我が原因となって本来の相撲を失うこととなった。大関時代は一度も二桁勝利を挙げることができず、在位10場所のうち2場所が9勝6敗、5場所連続で8勝7敗に終わったことから「クンロク大関」「ハチナナ大関」と揶揄されることもあった。その一方で、同部屋の力士からは「右足の怪我がなければ横綱」と惜しまれるほど、苦しい土俵が続いた。
無気力相撲の注意による休場と大関陥落
昭和47年(1972年)3月場所の12日目、大関・琴櫻を張り手で気絶させた一番に対し、相撲競技監察委員会から発足後初となる「無気力相撲」との注意を受ける事態となった。これを重く見た当時の師匠・5代高砂(元横綱・朝潮)の勧めで同場所を途中休場し、大関在位10場所での関脇陥落が決まった。その後は平幕へ主戦場を移して取り続けたが、昭和49年(1974年)3月場所を最後に現役を引退した。
高田川部屋の創設と名跡交換
引退後は年寄・8代高田川を襲名し、高砂部屋から独立して高田川部屋を創設する。弟子の育成に励む一方で、平成10年(1998年)には周囲の反対を押し切って日本相撲協会の理事選挙に立候補したため、所属していた高砂一門から破門された。さらに後継者に指名していた弟子が肺疾患により現役中に死去するなど、部屋運営において苦難も経験する。
平成16年(2004年)、貴乃花部屋から16代千田川(元関脇・安芸乃島)が移籍して合流し、その熱心な指導により部屋の関取が復活する。理事などを務めて協会を支えた後、平成21年(2009年)8月5日に16代千田川と年寄名跡を交換して自身は17代千田川となり、同時に部屋を譲渡して後進に道を託した。平成22年(2010年)3月8日に日本相撲協会を停年退職し、令和3年(2021年)3月11日に多臓器不全のため76歳で死去した。
- 四股名
- 前の山 太郎 (まえのやま たろう)
- 最高位
- 大関
- 年寄名跡
- 8代高田川 和一(高砂) → 8代高田川 和一 → 17代千田川 和一(高田川)
- 出身地
- 大阪府守口市
- 本名
- 金島 和一→中矢 和一→清水 和一
- 生年月日
- 昭和20年(1945)3月9日
- 没年月日
- 令和3年(2021)3月11日(享年76歳)
- 所属部屋
- 高砂部屋
- 改名歴
- 金島 和一 → 金の島 和一 → 前ノ山 和一 → 前の山 和一 → 前ノ山 和一 → 前の山 和一 → 前の山 太郎 → 前乃山 太郎 → 前の山 太郎
- 初土俵
- 昭和36年(1961)3月 前相撲(16歳0ヶ月)
- 新十両
- 昭和40年(1965)11月(所要28場所)
- 20歳8ヶ月(初土俵から4年8ヶ月)
- 新入幕
- 昭和41年(1966)9月(所要33場所)
- 21歳6ヶ月(初土俵から5年6ヶ月)
- 新小結
- 昭和43年(1968)7月(所要44場所)
- 23歳4ヶ月(初土俵から7年4ヶ月)
- 新関脇
- 昭和43年(1968)3月(所要42場所)
- 23歳0ヶ月(初土俵から7年0ヶ月)
- 新大関
- 昭和45年(1970)9月(所要57場所)
- 25歳6ヶ月(初土俵から9年6ヶ月)
- 最終場所
- 昭和49年(1974)3月場所(29歳0ヶ月)
- 大相撲歴
- 79場所(13年0ヶ月)
- 通算成績
- 487勝397敗48休880出場(勝率.553)
- 通算79場所
- 勝ち越し54場所(勝ち越し率.711)(勝ち越し星158)
- 優勝等
- 幕内(同点1 次点1),十両優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞3回,敢闘賞2回,金星1個(柏戸1個)
- 持給金
- 116円50銭(勝ち越し星158個 金星1個)
- 大関戦歴
- 67勝56敗27休121出場(勝率.554)
- 在位10場所(在位率.127)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.800)
- 幕内戦歴
- 343勝305敗34休644出場(勝率.533)
- 在位46場所(在位率.582)
- 勝ち越し33場所(勝ち越し率.717)
- 三役戦歴
- 125勝100敗0休225出場(勝率.556)
- 在位15場所(在位率.190)
- 勝ち越し11場所(勝ち越し率.733)
- 関脇戦歴
- 95勝70敗0休165出場(勝率.576)
- 在位11場所(在位率.139)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.727)
- 小結戦歴
- 30勝30敗0休60出場(勝率.500)
- 在位4場所(在位率.051)
- 勝ち越し3場所(勝ち越し率.750)
- 前頭戦歴
- 151勝149敗7休298出場(勝率.507)
- 在位21場所(在位率.266)
- 勝ち越し14場所(勝ち越し率.667)
- 十両戦歴
- 46勝29敗0休75出場(勝率.613)
- 在位5場所(在位率.063)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.800)
- 関取戦歴
- 389勝334敗34休719出場(勝率.541)
- 在位51場所(在位率.646)
- 勝ち越し37場所(勝ち越し率.725)
- 幕下以下歴
- 98勝63敗14休161出場(勝率.609)
- 在位25場所(在位率.316)
- 勝ち越し17場所(勝ち越し率.680)
前の山 太郎の更に詳細なデータは力士名鑑で!
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(125回 / 32.1%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(81回 / 24.2%)
- ✅ 得意な相手:若二瀬(14勝3敗 / 勝率.824)
- ✅ 苦手な相手:北の富士(6勝25敗 / 勝率.194)
豪栄道 豪太郎
豪栄道 豪太郎 (ごうえいどう ごうたろう)は大阪府寝屋川市出身、境川部屋の元力士で、最高位は大関。
平成17年(2005)1月場所に18歳9ヶ月で初土俵を踏み、令和2年(2020)1月場所を最後に引退(33歳9ヶ月)。
通算成績は696勝493敗66休1180出場。生涯勝率.590。通算90場所中、62場所を勝ち越した(勝ち越し率.697)。
主な成績は幕内優勝1回(同点1 次点6)、十両(同点1)、幕下優勝2回、三段目優勝1回、序ノ口優勝1回、殊勲賞5回、敢闘賞3回、技能賞3回、金星1個(朝青龍1個)。
昭和61年(1986)4月6日生まれ。本名は澤井 豪太郎。
豪栄道は、アマチュア相撲で数々のタイトルを獲得して角界入りし、昭和以降単独1位となる関脇連続在位14場所の実績を経て大関へと昇進した力士である。大関在位は歴代10位となる33場所を数え、平成28年(2016年)9月場所では、大相撲史上初となるカド番大関による全勝優勝を達成した。引退後は年寄を襲名し、自らの部屋を創設して後進の指導にあたっている。
生い立ちと入門経緯
大阪府寝屋川市に生まれ育つ。出生時の体重が4380グラムと大きかったことや、「最も豪華で大きな太郎になってほしい」という願いから、本名を「豪太郎」と名付けられた。小学1年次から相撲を始め、市の大会で思いがけず優勝したことを機に相撲の魅力にのめり込む。小学3年次からは交野市の古市道場(元十両・古市の実家)へ通って本格的な手ほどきを受け、小学5年次には「わんぱく横綱」の栄冠を手にした。
中学卒業後は相撲の名門である埼玉栄高校へ進学し、高校横綱や世界ジュニア相撲選手権大会無差別級優勝など、11個の個人タイトルを獲得する。高校3年次には、周囲から「高卒での幕下付出資格取得」を期待されるなか、全日本相撲選手権大会に出場し、高校生として史上4人目となる3位入賞を果たした。惜しくも付出資格取得には届かなかったが高い実力を証明した。卒業後は日本大学への推薦入学が内々定していたが、本人は角界入りを強く希望して進学を辞退する。その結果、直後に控えていた国民体育大会へ向けた稽古場所を失うことになったが、高校の監督の先輩にあたる13代境川(元小結・両国)を頼り、境川部屋へ出稽古に向かった。そこで幕下力士を圧倒する実力を見せ、そのまま同部屋へ入門して平成17年(2005年)1月場所で初土俵を踏んだ。
小手先の相撲からの脱却と関取昇進
各段を1場所で通過し、幕下2場所目には7戦全勝で優勝を果たす。しかし、幕下上位の壁に直面し、西幕下2枚目で迎えた平成18年(2006年)1月場所で入門後初となる負け越しを喫した。翌場所も負け越したことで「勝ちたい気持ちが強すぎて、固くなって自分の相撲が取れなくなった」と猛省し、立合いで変化する小手先の相撲を封印する。正面から当たる相撲を徹底したことで攻めのスピードが増し、同年9月場所では西幕下6枚目で全勝優勝を飾った。
翌11月場所で新十両への昇進を果たした。これを機に、四股名を「豪栄道」へと改めた。この四股名は、本名の「豪」、母校である埼玉栄高校の「栄」、そして相撲道と高校の恩師の名前から「道」の一字を採り、「力強く栄え、相撲道に精進する」という意味に由来する。十両を順調に通過し、平成19年(2007年)9月場所で新入幕を果たすと、11勝4敗の好成績を残して初の三賞となる敢闘賞を受賞した。以降も着実に番付を上げ、平成22年(2010年)1月場所では朝青龍を破り、自身初となる金星を獲得する。この場所後に朝青龍が引退を表明したため、結果として朝青龍にとって最後の金星配給相手となった。
関脇連続14場所と大関昇進
幕内上位に定着し、平成24年(2012年)5月場所で関脇に昇進すると、そこから長期間にわたって三役の地位を守り続ける。平成26年(2014年)3月場所から3場所連続で12勝、8勝、12勝という成績を残し、直近3場所で合計32勝を挙げた。大関昇進の目安とされる33勝には届かなかったものの、昭和以降単独1位となる「関脇連続在位14場所」という安定した実績が評価された。昇進を懸けた7月場所では、千秋楽の取組で大関・琴奨菊に勝利することを条件として理事会で昇進の方針が決定され、見事に琴奨菊を下して大関昇進を決定づけた。大阪府出身力士としては、昭和45年(1970年)の前の山以来44年ぶりの大関誕生であった。
史上初のカド番全勝優勝
大関昇進後は度重なる怪我に苦しんだ。左外側半月板損傷や左肩峰剥離骨折などにより休場や負け越しを経験し、カド番を繰り返す苦難の場所が続く。しかし、自身4度目のカド番で迎えた平成28年(2016年)9月場所では、初日から白星を重ねて順調にカド番を脱出する。13日目には横綱・日馬富士を逆転で破り、14日目に玉鷲を下して幕内最高優勝を決定させた。千秋楽でも大関・琴奨菊を破り、15戦全勝で賜杯を手にする。日本人力士の全勝優勝は平成8年(1996年)9月場所の横綱・貴乃花以来20年ぶりであり、大阪府出身力士の優勝は昭和5年(1930年)の山錦以来86年ぶりであった。カド番大関による全勝優勝は、大相撲史上初となる記録であった。
現役引退と武隈部屋創設
その後も大関として土俵を務めたが、令和元年(2019年)11月場所を途中休場し、カド番として令和2年(2020年)1月場所を迎える。この場所で序盤から苦戦を強いられ、12日目に朝乃山に敗れて負け越しが決定し、歴代10位となる大関在位33場所での陥落が決まった。地元開催となる翌月の大阪場所を前に、「気力のない相撲を皆さんの前で取るわけにはいかない」と決断を下し、千秋楽を終えた直後の1月28日に日本相撲協会へ引退届を提出した。
引退後は年寄・14代武隈を襲名して境川部屋で後進の指導にあたり、令和4年(2022年)2月1日付で分家独立して武隈部屋を創設した。
- 四股名
- 豪栄道 豪太郎 (ごうえいどう ごうたろう)
- 最高位
- 大関
- 年寄名跡
- 14代武隈 豪太郎(境川) → 14代武隈 豪太郎
- 出身地
- 大阪府寝屋川市
- 本名
- 澤井 豪太郎
- 生年月日
- 昭和61年(1986)4月6日(40歳)
- 出身高校
- 埼玉栄高校
- 所属部屋
- 境川部屋
- 改名歴
- 澤井 豪太郎 → 豪栄道 豪太郎
- 初土俵
- 平成17年(2005)1月 前相撲(18歳9ヶ月)
- 新十両
- 平成18年(2006)11月(所要11場所)
- 20歳7ヶ月(初土俵から1年10ヶ月)
- 新入幕
- 平成19年(2007)9月(所要16場所)
- 21歳5ヶ月(初土俵から2年8ヶ月)
- 新小結
- 平成20年(2008)11月(所要23場所)
- 22歳7ヶ月(初土俵から3年10ヶ月)
- 新関脇
- 平成21年(2009)5月(所要26場所)
- 23歳1ヶ月(初土俵から4年4ヶ月)
- 新大関
- 平成26年(2014)9月(所要57場所)
- 28歳5ヶ月(初土俵から9年8ヶ月)
- 最終場所
- 令和2年(2020)1月場所(33歳9ヶ月)
- 大相撲歴
- 90場所(15年0ヶ月)
- 通算成績
- 696勝493敗66休1180出場(勝率.590)
- 通算90場所
- 勝ち越し62場所(勝ち越し率.697)(勝ち越し星272)
- 優勝等
- 幕内優勝1回(同点1 次点6),十両(同点1),幕下優勝2回,三段目優勝1回,序ノ口優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞5回,敢闘賞3回,技能賞3回,金星1個(朝青龍1個)
- 持給金
- 218円(勝ち越し星272個 優勝1回 金星1個)
- 大関戦歴
- 260勝194敗41休447出場(勝率.582)
- 在位33場所(在位率.367)
- 勝ち越し23場所(勝ち越し率.697)
- 幕内戦歴
- 587勝442敗66休1020出場(勝率.575)
- 在位73場所(在位率.811)
- 勝ち越し49場所(勝ち越し率.671)
- 三役戦歴
- 158勝126敗1休283出場(勝率.558)
- 在位19場所(在位率.211)
- 勝ち越し13場所(勝ち越し率.684)
- 関脇戦歴
- 132勝92敗1休223出場(勝率.592)
- 在位15場所(在位率.167)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.800)
- 小結戦歴
- 26勝34敗0休60出場(勝率.433)
- 在位4場所(在位率.044)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.250)
- 前頭戦歴
- 169勝122敗24休290出場(勝率.583)
- 在位21場所(在位率.233)
- 勝ち越し13場所(勝ち越し率.619)
- 十両戦歴
- 57勝33敗0休90出場(勝率.633)
- 在位6場所(在位率.067)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率.833)
- 関取戦歴
- 644勝475敗66休1110出場(勝率.580)
- 在位79場所(在位率.878)
- 勝ち越し54場所(勝ち越し率.684)
- 幕下以下歴
- 52勝18敗0休70出場(勝率.743)
- 在位10場所(在位率.111)
- 勝ち越し8場所(勝ち越し率.800)
豪栄道 豪太郎の更に詳細なデータは力士名鑑で!
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(213回 / 30.6%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(92回 / 18.6%)
- ✅ 得意な相手:碧山(23勝3敗 / 勝率.885)
- ✅ 苦手な相手:白鵬(6勝38敗 / 勝率.136)
山錦 善治郎
山錦 善治郎 (やまにしき ぜんじろう)は大阪府大阪市出身、出羽海部屋の元力士で、最高位は関脇。
大正6年(1917)5月場所に19歳0ヶ月で初土俵を踏み、昭和7年(1932)1月場所を最後に引退(33歳8ヶ月)。
通算成績は189勝145敗15休1分5預339出場。生涯勝率.558。通算40場所中、27場所を勝ち越した(勝ち越し率.692)。
主な成績は幕内優勝1回、金星6個(西ノ海1個、宮城山5個)。
本名は山田 善次郎。明治31年(1898)4月17日生まれ。昭和47年(1972)5月27日逝去(享年74歳)。
大正から昭和初期にかけて出羽海部屋に所属し、学生相撲出身力士の先駆者として活躍した元関脇。関西大学を中退して大相撲の土俵へ飛び込み、出足鋭い押し相撲を武器に幕内上位で長らく奮闘した。昭和5年(1930年)には東前頭5枚目(平幕)の地位で、優勝制度が制定されて初となる平幕での全勝優勝という歴史に名を刻む足跡を残したものの、のちに相撲協会を脱退するなど、独自の道を歩んだ土俵人生であった。
大学中退から入門へ
大阪の魚屋の次男として生まれ、関西大学専門部へ進学して相撲部で活躍していたが、同郷である大阪出身の横綱・大錦卯一郎を慕い、大学を中退して出羽海部屋へ入門する。当時の大相撲において、大学に在籍した経験を持つ力士は極めて珍しく、学生相撲出身力士の第1号として語られる存在となった。
大正6年(1917年)5月場所に初土俵を踏んだ。四股名の「山錦」は、本名である山田の「山」と、師匠である大錦の「錦」から一文字ずつ取って名付けられたものである。
鼻骨を削るほどの猪突猛進
着実に番付を上げ、大正11年(1922年)1月場所に十両へ昇進する。十両を2場所で通過し、大正12年(1923年)1月場所で新入幕を果たした。
取り口は、出足の鋭い押し一本槍であった。立合いから一気に相手を押し込む「猪突猛進」な相撲は、対戦相手にとって大きな脅威となった。相手に激しくぶちかますたびに鼻を痛めるため、ついには医者に頼んで鼻骨を削ったという逸話が残るほど、土俵にかける激しい執念を見せていた。また、単なる力任せの押し相撲にとどまらず、立合いの駆け引きにも長けており、相手の隙を突く巧みさも持ち合わせていた。
最多金星獲得と関脇昇進
幕内上位へ進出すると、横綱や大関を相手に存在感を示した。大正15年(1926年)1月場所に新小結へ昇進する。特に横綱・宮城山福松に対して強さを発揮し、通算で5個の金星を獲得した。さらに横綱・西ノ海嘉治郎からも金星を挙げており、生涯で計6個の金星を獲得している。これは当時の最多金星獲得記録でもあった。
昭和2年(1927年)10月場所には、自己最高位となる東関脇へ昇進した。以降も三役から前頭上位に定着し、実力者として幕内の土俵を盛り上げた。
歴史に名を刻む全勝優勝
土俵人生のハイライトとなったのは、東前頭5枚目で迎えた昭和5年(1930年)5月場所である。初日から持ち味の鋭い出足が冴え渡り、上位陣を次々と撃破していく。その勢いは最後まで衰えることなく、11戦全勝という見事な成績で幕内最高優勝を果たした。
この優勝は大学出身力士として史上初となる幕内最高優勝であり、優勝制度が制定されて初となる平幕での全勝優勝だった。
春秋園事件による脱退と引退
幕内上位で長く活躍を続けていたが、昭和7年(1932年)1月場所の直前に「春秋園事件」が発生する。力士の待遇改善や協会の体質刷新を求めて関脇・天龍三郎らが決起したこの騒動に同調し、大日本相撲協会を脱退した。これにより、昭和7年(1932年)1月場所が事実上の最終場所となった。
新興力士団に加わって新設された関西角力協会では、明晰な頭脳を買われ天竜の参謀格となった。大阪出身で地元に後援者を持っていたことが、天竜一派が大阪を地盤とする上で役立ったともいわれている。同協会が解散した昭和12年(1937年)12月まで天竜と行動をともにした。
解散の際には脱退力士の協会帰参に奔走したが、自身は春秋園事件の弓引き役であったとして帰参せずに、角界から身を引くことを選択した。
土俵を去った後は、地元である大阪で「山錦旅館」やプラスチック工場などを経営した。昭和47年(1972年)5月27日に74歳でこの世を去った。
- 四股名
- 山錦 善治郎 (やまにしき ぜんじろう)
- 最高位
- 関脇
- 出身地
- 大阪府大阪市
- 本名
- 山田 善次郎
- 生年月日
- 明治31年(1898)4月17日
- 没年月日
- 昭和47年(1972)5月27日(享年74歳)
- 出身大学
- 関西大学
- 所属部屋
- 出羽海部屋
- 改名歴
- 山錦 善治郎
- 初土俵
- 大正6年(1917)5月 前相撲(19歳0ヶ月)
- 新十両
- 大正11年(1922)1月(所要9場所)
- 23歳8ヶ月(初土俵から4年8ヶ月)
- 新入幕
- 大正12年(1923)1月(所要11場所)
- 24歳8ヶ月(初土俵から5年8ヶ月)
- 新小結
- 大正15年(1926)1月(所要17場所)
- 27歳8ヶ月(初土俵から8年8ヶ月)
- 新関脇
- 昭和2年(1927)10月(所要22場所)
- 29歳5ヶ月(初土俵から10年5ヶ月)
- 最終場所
- 昭和7年(1932)1月場所(33歳8ヶ月)
- 大相撲歴
- 40場所(14年8ヶ月)
- 通算成績
- 189勝145敗15休1分5預339出場(勝率.558)
- 通算40場所
- 勝ち越し27場所(勝ち越し率.692)(勝ち越し星72)
- 優勝等
- 幕内優勝1回
- 受賞・金星
- 金星6個(西ノ海1個、宮城山5個)
- 持給金
- 175円50銭(勝ち越し星72個 優勝1回 金星6個)
- 幕内戦歴
- 155勝132敗15休1分3預290出場(勝率.534)
- 在位29場所(在位率.725)
- 勝ち越し18場所(勝ち越し率.621)
- 三役戦歴
- 43勝47敗8休1分90出場(勝率.478)
- 在位9場所(在位率.225)
- 勝ち越し6場所(勝ち越し率.667)
- 関脇戦歴
- 13勝8敗1休21出場(勝率.619)
- 在位2場所(在位率.050)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 小結戦歴
- 30勝39敗7休1分69出場(勝率.435)
- 在位7場所(在位率.175)
- 勝ち越し4場所(勝ち越し率.571)
- 前頭戦歴
- 112勝85敗7休3預200出場(勝率.560)
- 在位20場所(在位率.500)
- 勝ち越し12場所(勝ち越し率.600)
- 十両戦歴
- 8勝4敗0休12出場(勝率.667)
- 在位2場所(在位率.050)
- 勝ち越し2場所(勝ち越し率1.000)
- 関取戦歴
- 163勝136敗15休1分3預302出場(勝率.540)
- 在位31場所(在位率.775)
- 勝ち越し20場所(勝ち越し率.645)
- 幕下以下歴
- 26勝9敗0休2預37出場(勝率.703)
- 在位8場所(在位率.200)
- 勝ち越し7場所(勝ち越し率.875)
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- ✅ 勝った決まり手1位:押し出し(24回 / 20.5%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(9回 / 9.4%)
- ✅ 得意な相手:清水川(7勝1敗 / 勝率.875)
- ✅ 苦手な相手:西ノ海(1勝5敗 / 勝率.167)
磐石 熊太郎
- 四股名 :磐石 熊太郎(ばんじゃく くまたろう)
- 最高位 :関脇
- 年寄名跡:7代北陣
- 出身地 :大阪府大阪市
- 本 名 :小六 熊雄⇒吉田 熊雄⇒小六 熊雄
- 生年月日:明治41年(1908)5月23日
- 没年月日:昭和19年(1944)9月26日(享年36歳)
- 所属部屋:朝日山部屋
- 改名歴 :東潟⇒盤石⇒磐石
- 初土俵 :昭和2年(1927)1月・三段目(18歳8ヵ月)
- 新十両 :昭和4年(1929)5月(21歳0ヵ月)
- 新入幕 :昭和9年(1934)5月(26歳0ヵ月)
- 新三役 :昭和13年(1938)5月(30歳0ヵ月)
- 最終場所:昭和18年(1943)1月(34歳8ヵ月)
- 生涯戦歴:206勝207敗9休/408出場(42場所)
- 生涯勝率:49.9%
- 優勝等 :なし
- 成 績 :金星1個
- 幕内戦歴:106勝123敗9休(18場所)勝率:46.3%
- 関脇:5勝7敗1休(1場所)勝率:41.7%
- 前頭:101勝116敗8休(17場所)勝率:46.5%
- 十両戦歴:34勝43敗(8場所)勝率:44.2%
豊嶋 雅男
- 四股名 :豊嶋 雅男(とよしま まさお)
- 最高位 :関脇
- 出身地 :大阪府大阪市
- 本 名 :西村 雅男
- 生年月日:大正8年(1919)12月23日
- 没年月日:昭和20年(1945)3月10日(享年25歳)
- 所属部屋:出羽海部屋
- 改名歴 :西村⇒豊嶋
- 初土俵 :昭和12年(1937)1月(17歳1ヵ月)
- 新十両 :昭和15年(1940)5月(20歳5ヵ月)
- 新入幕 :昭和16年(1941)5月(21歳5ヵ月)
- 新三役 :昭和17年(1942)5月(22歳5ヵ月)
- 最終場所:昭和19年(1944)11月(24歳11ヵ月)
- 生涯戦歴:112勝65敗/176出場(17場所)
- 生涯勝率:63.3%
- 優勝等 :なし
- 成 績 :金星2個
- 幕内戦歴:61勝49敗(8場所)勝率:55.5%
- 関脇:6勝9敗(1場所)勝率:40.0%
- 小結:19勝21敗(3場所)勝率:47.5%
- 前頭:36勝19敗(4場所)勝率:65.5%
- 十両戦歴:23勝7敗(2場所)勝率:76.7%
勢 翔太
勢 翔太 (いきおい しょうた)は大阪府交野市出身、伊勢ノ海部屋の元力士で、最高位は関脇。
平成17年(2005)3月場所に18歳5ヶ月で初土俵を踏み、令和3年(2021)5月場所を最後に引退(34歳7ヶ月)※番付上は令和3年(2021)7月場所。
通算成績は546勝545敗14休1090出場。生涯勝率.501。通算96場所中、51場所を勝ち越した(勝ち越し率.537)。
主な成績は幕内(次点1)、十両優勝2回(同点2)、序二段(同点1)、敢闘賞4回、金星5個(白鵬2個、鶴竜2個、稀勢の里1個)。
昭和61年(1986)10月11日生まれ。本名は東口 翔太。
平成から令和にかけて伊勢ノ海部屋に所属し、長身を活かした力強い右四つからの相撲で活躍した元関脇。幕内上位に定着して数々の金星や三賞を獲得するなど確かな足跡を残したものの、晩年は度重なる怪我や病気に苦しみながらも土俵に上がり続けた。また、相撲甚句の名手としても広く知られ、土俵内外で多くのファンを魅了した。
わんぱく相撲からの躍進と挫折
大阪府交野市に生まれ、小学3年生の時に未経験で地元のわんぱく相撲大会に出場して優勝を果たす。この活躍をきっかけに、同学年であった澤井(のちの大関・豪栄道)の父から体格の良さを見込まれて勧誘を受け、澤井とともに古市道場へ通い始めた。小学4年生の時にはわんぱく相撲全国大会で準優勝を果たすなど実績を重ね、小学5年生の頃には、実家が営む寿司店の常連客からの紹介で11代伊勢ノ海(元関脇・藤ノ川)と出会っている。
しかし、相撲の名門である報徳学園高校の受験に失敗したことで、中学卒業後は実家の家業を手伝い、一時は一人暮らしでフリーター生活を送るなど相撲から離れた時期があった。そのような中、急逝した祖母の葬儀に11代伊勢ノ海が参列したことに心を動かされ、再び相撲に本腰を入れることを決意する。平成17年(2005年)3月場所、18歳で伊勢ノ海部屋へ入門し、本名の「東口」で初土俵を踏んだ。
「勢」への改名と十両優勝
初土俵から約1年で幕下へ昇進したものの、その後は幕下上位の壁に阻まれ、約5年半にわたり一進一退の星が続いた。しかし、地道な稽古で力をつけ、平成23年(2011年)11月場所で待望の新十両昇進を果たす。
これを機に、四股名を「勢」へと改めたが、漢字一文字の四股名を持つ力士の関取昇進は、14年ぶりのことであった。新十両として迎えた同場所では持ち味の右四つからの攻めが冴え渡り、14日目の段階で初の十両優勝を確定させる。最終的に12勝3敗の好成績を挙げた。
幕内定着と思い出の金星
平成24年(2012年)3月場所で新入幕を果たす。その後は幕内に定着し、長身から繰り出す威力のある立ち合いと上手投げを武器に上位陣を脅かす存在となった。平成25年(2013年)11月場所では11勝4敗の好成績で初の敢闘賞を受賞する。平成26年(2014年)11月場所で新小結へ昇進し、平成28年(2016年)5月場所には自己最高位となる西関脇へ昇進を果たした。しかし、新関脇場所は4勝11敗と大きく負け越して関脇在位は1場所で終わった。
平成29年(2017年)3月場所は、場所前に右腕を負傷し万全の状態ではなかったが、4日目の横綱・白鵬戦では立合いから得意の右を差し込み、渾身の攻めで寄り倒して見事に金星を獲得した。のちに「思い出の取組」として挙げた白鵬からの大金星ではあったが、この大勝利と引き換えに右腕の負傷をさらに悪化させてしまい、その後の取組は苦しい展開が続いて5勝10敗で場所を終えた。
1090回の連続出場と現役引退
幕内上位で長く活躍を続けていたが、平成30年(2018年)頃から蜂窩織炎やアキレス腱の負傷といった深刻な怪我や病気に苦しめられるようになる。休場せずに強行出場を続けながら土俵に上がり続けたものの、令和元年(2019年)5月場所には十両へ降下した。同年9月場所では西十両12枚目の地位で12勝3敗の成績を挙げ、2度目の十両優勝を果たして幕内復帰への執念を見せた。
しかし、その後も負傷の影響は深刻であった。令和3年(2021年)1月場所、左手親指付近の骨折が判明し、ついに千秋楽を休場する。これにより、初土俵から続いていた連続出場記録が1090回でストップした。翌3月場所には幕下へ陥落し、さらに全休が続いたことで同年7月場所には三段目まで降下する。最高位が関脇の力士が三段目に陥落したのは史上3人目のことであった。土俵復帰を目指して現役に留まっていたものの、ついに怪我が回復することはなく、同場所の直前に現役引退を発表した。
引退後は年寄「24代春日山」を襲名し、伊勢ノ海部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっている。引退会見では「決してあきらめない、強い力士を育てたい」と指導者としての抱負を語った。また、現役時代から相撲甚句の名手として知られており、令和8年(2026年)6月からは相撲教習所において相撲甚句の授業の講師を務めている。
- 四股名
- 勢 翔太 (いきおい しょうた)
- 最高位
- 関脇
- 年寄名跡
- 24代春日山 翔太(伊勢ノ海)
- 出身地
- 大阪府交野市
- 本名
- 東口 翔太
- 生年月日
- 昭和61年(1986)10月11日(39歳)
- 所属部屋
- 伊勢ノ海部屋
- 改名歴
- 東口 翔太 → 勢 翔太
- 初土俵
- 平成17年(2005)3月 前相撲(18歳5ヶ月)
- 新十両
- 平成23年(2011)11月(所要39場所)
- 25歳1ヶ月(初土俵から6年8ヶ月)
- 新入幕
- 平成24年(2012)3月(所要41場所)
- 25歳5ヶ月(初土俵から7年0ヶ月)
- 新小結
- 平成26年(2014)11月(所要57場所)
- 28歳1ヶ月(初土俵から9年8ヶ月)
- 新関脇
- 平成28年(2016)5月(所要66場所)
- 29歳7ヶ月(初土俵から11年2ヶ月)
- 最終場所
- 令和3年(2021)5月場所(34歳7ヶ月)※番付上は令和3年(2021)7月場所
- 大相撲歴
- 96場所(16年2ヶ月)
- 通算成績
- 546勝545敗14休1090出場(勝率.501)
- 通算96場所
- 勝ち越し51場所(勝ち越し率.537)(勝ち越し星173)
- 優勝等
- 幕内(次点1),十両優勝2回(同点2),序二段(同点1)
- 受賞・金星
- 敢闘賞4回,金星5個(白鵬2個、鶴竜2個、稀勢の里1個)
- 持給金
- 139円50銭(勝ち越し星173個 金星5個)
- 幕内戦歴
- 308勝352敗0休660出場(勝率.467)
- 在位44場所(在位率.458)
- 勝ち越し22場所(勝ち越し率.500)
- 三役戦歴
- 15勝30敗0休45出場(勝率.333)
- 在位3場所(在位率.031)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 関脇戦歴
- 4勝11敗0休15出場(勝率.267)
- 在位1場所(在位率.010)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 小結戦歴
- 11勝19敗0休30出場(勝率.367)
- 在位2場所(在位率.021)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 前頭戦歴
- 293勝322敗0休615出場(勝率.476)
- 在位41場所(在位率.427)
- 勝ち越し22場所(勝ち越し率.537)
- 十両戦歴
- 87勝78敗0休164出場(勝率.530)
- 在位11場所(在位率.115)
- 勝ち越し6場所(勝ち越し率.545)
- 関取戦歴
- 395勝430敗0休824出場(勝率.479)
- 在位55場所(在位率.573)
- 勝ち越し28場所(勝ち越し率.509)
- 幕下以下歴
- 151勝115敗14休266出場(勝率.568)
- 在位40場所(在位率.417)
- 勝ち越し23場所(勝ち越し率.575)
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名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:押し出し(124回 / 22.7%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(109回 / 19.9%)
- ✅ 得意な相手:臥牙丸(10勝3敗 / 勝率.769)
- ✅ 苦手な相手:豪栄道(1勝17敗 / 勝率.056)
尼ヶ嵜 清吉
大阪府大阪市西淀川区福町出身、井筒部屋の元力士で最高位は小結。体格には恵まれなかったが研究熱心で取り口に工夫を凝らしていた。また、当時相撲名人と謳われた逆鉾与治郎から押し相撲の極意を授かり、その妙を得ることができた。24歳で序ノ口に付き28歳で新入幕、その後36歳にして新小結昇進を果たした大器晩成の力士。引退後は10代振分を襲名、のちに12代間垣として部屋を構えたこともある。
- 四股名 :尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち)
- 最高位 :小結
- 年寄名跡:10代振分⇒12代間垣⇒12代間垣
- 出身地 :大阪府大阪市西淀川区福町
- 本 名 :半田 清吉
- 生年月日:明治4年(1871)11月13日
- 没年月日:昭和22年(1947)3月4日(享年75歳)
- 所属部屋:井筒部屋
- 初土俵 :明治29年(1896)1月・序ノ口(24歳2ヵ月)
- 新十両 :明治32年(1899)5月(27歳6ヵ月)
- 新入幕 :明治33年(1900)1月(28歳2ヵ月)
- 新三役 :明治41年(1908)1月(36歳2ヵ月)
- 最終場所:明治45年(1912)1月(40歳2ヵ月)
- 優勝等 :なし
- 幕内戦歴:72勝73敗55休16分4預(22場所)勝率:49.7%
- 小結:0勝2敗6休2分(1場所)勝率:0.0%
- 前頭:72勝71敗49休14分4預(21場所)勝率:50.3%
- 十両戦歴:7勝2敗1分(3場所)勝率:77.8%
佐田の海 鴻嗣
佐田の海 鴻嗣 (さだのうみ こうじ)は大阪府堺市出身、出羽海部屋の元力士で、最高位は小結。
昭和47年(1972)3月場所に15歳7ヶ月で初土俵を踏み、昭和63年(1988)7月場所を最後に引退(31歳11ヶ月)。
通算成績は544勝581敗7休1124出場。生涯勝率.484。通算99場所中、55場所を勝ち越した(勝ち越し率.561)。
主な成績は幕下優勝1回、序ノ口優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞1回。
昭和31年(1956)7月19日生まれ。本名は松村 宏司。
元小結・佐田の海は、出羽海部屋に所属し、昭和50年代から60年代にかけて活躍した力士である。持ち前の前捌きと二本差しての速攻を武器に幕内上位で奮闘し、三賞を4度受賞した。引退後は複数の年寄名跡を襲名して後進の指導にあたり、のちに長男も自身と同じ「佐田の海」の四股名で幕内へと昇進し、史上初となる父子二代での新入幕三賞受賞という記録を残したことでも知られる。
入門と「佐田の海」への改名
大阪府堺市で生まれ、中学校卒業とともに出羽海部屋へ入門。昭和47年(1972年)3月場所に本名の「松村」を名乗って初土俵を踏んだ。翌5月場所では序ノ口で6勝1敗の好成績を挙げて優勝を果たしている。その後も9代出羽海(第50代横綱・佐田の山)の指導を受け、同部屋の力士たちと稽古を重ねて着実に地力を強化し、初土俵から6年後の昭和53年(1978年)3月場所において新十両昇進を果たした。
しかし、新十両の土俵では3勝12敗と大きく負け越し、1場所で幕下へ陥落した。これを機に、師匠の現役名である「佐田の山」から「佐田」の字を譲り受け、四股名を「佐田の海」へと改めた。同年5月場所、7月場所を幕下で勝ち越して9月場所で十両へ復帰したものの、2勝13敗と跳ね返され再び幕下へ降下する。その後は幕下上位で一進一退の星が続いたが、昭和54年(1979年)7月場所において西幕下7枚目で7戦全勝の幕下優勝を飾り、3度目の十両昇進を決定づけた。
幕内定着と関脇の壁
以降は関取の座を維持し、昭和55年(1980年)11月場所で新入幕を果たす。西前頭12枚目に番付を置いたこの場所では初日から9連勝を記録し、最終的に11勝4敗で敢闘賞を受賞した。幕内に定着すると、師匠からの「引くな」という教えを体現する相撲で活躍を見せる。昭和56年(1981年)11月場所では10勝5敗で技能賞を獲得し、翌57年(1982年)1月場所で新三役となる東小結へ昇進した。
新三役の場所では9日目に横綱・千代の富士を破り、8勝7敗と勝ち越して殊勲賞を獲得する。場所後、関脇の地位に空きが生じたため昇進が期待されたが、東関脇には西小結で10勝を挙げた出羽の花が、西関脇には平幕上位で12勝を挙げた若島津がそれぞれ座り、自身は東小結に据え置かれた。その後も幕内上位で幾度か勝ち越しを記録したが、ついに関脇へ昇進することは叶わなかった。
土俵外では同部屋の特等床山・床安と固い信頼関係を築いていた。関取として地位を確立した後は床安以外の者に自身の頭を触らせず、日頃から財布を預けるほどの仲であったという。ある日「俺の頭をやっている床山が、みっともない格好をしていては駄目だろう」と仕立てのジャケットを贈るなど気風が良く、床安からは「酒に強く、女にモテて、ええかっこしい。相撲取りらしい相撲取り」と評された。
怪我との闘い、受け継がれる四股名
土俵人生の後半は右肘の故障に苦しめられる。手術に踏み切ったものの状況は好転せず、徐々に番付を下げていった。昭和63年(1988年)3月場所では西前頭10枚目で15戦全敗を喫し、翌5月場所で十両へ陥落した。その5月場所も6勝9敗と負け越し、西十両11枚目で迎えた同年7月場所の途中で現役引退を表明した。
引退後は年寄・11代二十山を襲名、その後も10代中立、13代田子ノ浦と名跡を変更しながら出羽海部屋付きの親方として後進の指導にあたり、平成11年(1999年)8月に日本相撲協会を退職した。
その後、長男の松村要も中学校卒業後に相撲界へ入り、境川部屋へ入門する。父と同じ「佐田の海」の四股名を継承し、平成26年(2014年)5月場所で新入幕を果たした長男は、この場所で敢闘賞を獲得して史上初となる「父子二代での新入幕三賞受賞」という記録を残した。この時、境川親方(元小結・両国)の計らいにより、部屋の垣根を越えて長男の髪を結い上げたのは、かつて自身の髷を握り続けた床安であった。
- 四股名
- 佐田の海 鴻嗣 (さだのうみ こうじ)
- 最高位
- 小結
- 年寄名跡
- 11代二十山 宏司(出羽海) → 10代中立 宏司(出羽海) → 13代田子ノ浦 宏司(出羽海) → 13代田子ノ浦 鴻嗣(出羽海)
- 出身地
- 大阪府堺市
- 本名
- 松村 宏司
- 生年月日
- 昭和31年(1956)7月19日
- 所属部屋
- 出羽海部屋
- 改名歴
- 松村 宏司 → 佐田の海 鴻嗣
- 初土俵
- 昭和47年(1972)3月 前相撲(15歳7ヶ月)
- 新十両
- 昭和53年(1978)3月(所要36場所)
- 21歳7ヶ月(初土俵から6年0ヶ月)
- 新入幕
- 昭和55年(1980)11月(所要52場所)
- 24歳3ヶ月(初土俵から8年8ヶ月)
- 新小結
- 昭和57年(1982)1月(所要59場所)
- 25歳5ヶ月(初土俵から9年10ヶ月)
- 最終場所
- 昭和63年(1988)7月場所(31歳11ヶ月)
- 大相撲歴
- 99場所(16年4ヶ月)
- 通算成績
- 544勝581敗7休1124出場(勝率.484)
- 通算99場所
- 勝ち越し55場所(勝ち越し率.561)(勝ち越し星149)
- 優勝等
- 幕下優勝1回,序ノ口優勝1回
- 受賞・金星
- 殊勲賞1回,敢闘賞2回,技能賞1回
- 持給金
- 77円50銭(勝ち越し星149個)
- 幕内戦歴
- 304勝371敗0休675出場(勝率.450)
- 在位45場所(在位率.455)
- 勝ち越し22場所(勝ち越し率.489)
- 三役戦歴
- 24勝36敗0休60出場(勝率.400)
- 在位4場所(在位率.040)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.250)
- 小結戦歴
- 24勝36敗0休60出場(勝率.400)
- 在位4場所(在位率.040)
- 勝ち越し1場所(勝ち越し率.250)
- 前頭戦歴
- 280勝335敗0休615出場(勝率.455)
- 在位41場所(在位率.414)
- 勝ち越し21場所(勝ち越し率.512)
- 十両戦歴
- 70勝86敗7休155出場(勝率.452)
- 在位11場所(在位率.111)
- 勝ち越し5場所(勝ち越し率.455)
- 関取戦歴
- 374勝457敗7休830出場(勝率.451)
- 在位56場所(在位率.566)
- 勝ち越し27場所(勝ち越し率.482)
- 幕下以下歴
- 170勝124敗0休294出場(勝率.578)
- 在位42場所(在位率.424)
- 勝ち越し28場所(勝ち越し率.667)
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- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(191回 / 50.3%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(169回 / 36.7%)
- ✅ 得意な相手:鳳凰(9勝2敗 / 勝率.818)
- ✅ 苦手な相手:千代の富士(1勝19敗 / 勝率.050)
大善 尊太
大善 尊太 (だいぜん たかひろ)は大阪府大阪市浪速区出身、二所ノ関部屋の元力士で、最高位は小結。
昭和56年(1981)3月場所に16歳3ヶ月で初土俵を踏み、平成15年(2003)3月場所を最後に引退(38歳3ヶ月)。
通算成績は739勝732敗61休1468出場。生涯勝率.503。通算133場所中、65場所を勝ち越した(勝ち越し率.492)。
主な成績は十両優勝3回、幕下優勝1回(同点1)、金星2個(曙1個、武蔵丸1個)。
昭和39年(1964)12月14日生まれ。本名は高橋 徳夫。
元小結・大善は、二所ノ関部屋に所属し、昭和末期から平成中期にかけて活躍した力士である。初土俵から新入幕まで10年以上を要した苦労人であったが、右四つからの力強い寄りや上手投げを武器に幕内に定着した。30代後半を迎えても幕内の土俵に上がり続け、当時の最長間隔での再入幕記録や、年6場所制における最年長金星記録を打ち立てるなど、長きにわたり息の長い活躍を見せた。
野球部からの転身と関取への道のり
浪商高校時代は野球部に所属し、一塁手の控え選手として汗を流していた。そんな折、二所ノ関部屋の麒麟児から「相撲ならいつでも試合に出場できるぞ」と勧誘を受ける。実父が時津風部屋に所属した元力士(最高位・三段目)であった縁もあり、高校を中退して二所ノ関部屋へ入門した。
昭和56年(1981年)3月場所において、本名の「高橋」を名乗って初土俵を踏む。翌場所から四股名を「高橋山」とし、昭和60年(1985年)には「大善」へと改名して幕下上位で地力を磨いた。初土俵から7年の歳月を経た昭和63年(1988年)3月場所において、待望の新十両昇進を果たす。しかし、直後の5月場所で負傷して途中休場を余儀なくされ、わずか2場所で幕下へ陥落した。そこから約2年間にわたり幕下での低迷が続いたが、平成2年(1990年)11月場所で帰り十両を果たし、再び関取の座を掴み取った。
新入幕と三役昇進
十両に復帰した後は着実に星を伸ばし、平成3年(1991年)9月場所では12勝3敗の成績を挙げて優勝決定戦に進出、貴ノ浪を押し倒して初の十両優勝を飾った。翌11月場所に貴ノ浪や武蔵丸らと共に新入幕を果たす。待望の新入幕ではあったが3場所連続で負け越して平成4年(1992年)5月場所には十両へと陥落。しかし9勝6敗と勝ち越して1場所で幕内復帰を遂げた。平成6年(1994年)3月場所において新三役となる西小結へ昇進し、同年11月場所では横綱・曙を破って自身初となる金星を獲得した。
プロレス観戦が趣味であった大善は、プロレスリング・ノアの三沢光晴と親交が深く、化粧回しを贈られている。
「今が全盛期です」
平成7年(1995年)5月場所で十両へ陥落して以降は幕内から遠ざかっていたが、歩みを止めることなく稽古を重ねた。平成11年(1999年)5月場所において、当時の最長記録となる25場所ぶりの再入幕を果たす。さらに平成13年(2001年)5月場所では、戦後4位となる36歳4ヶ月での高齢再入幕を果たすなど、ベテランの健在ぶりを示した。
同年11月場所の10日目、かつて共に新入幕を果たした同期であり、この日まで無敗を誇っていた横綱・武蔵丸と対戦する。立ち合いから右上手出し投げで素早く体を寄せ、そのまま寄り切って7年ぶりとなる2個目の金星を獲得した。36歳11ヶ月での金星は年6場所制における最年長記録となり、取組後のインタビューで「今が全盛期です」と語った言葉は、その不屈の精神を象徴するものとなった。生涯を通じて三賞の獲得には至らなかったが、長らく幕内最年長力士として大相撲を支え続けた。
引退とその後
平成15年(2003年)1月場所で大きく負け越し、幕下への陥落が確実となる。地元・大阪で開催される翌3月場所を現役最後の舞台と定め、東幕下筆頭の地位で出場した。13日目の取組で十両・壽山を掬い投げで破って白星を挙げ、この場所を最後に現役引退を表明した。
引退後は年寄・9代富士ヶ根を襲名し、二所ノ関部屋付きの親方として後進の指導にあたっていた。平成25年(2013年)1月に二所ノ関部屋が閉鎖されたことに伴い、一門外である出羽海一門の春日野部屋へと移籍した。
- 四股名
- 大善 尊太 (だいぜん たかひろ)
- 最高位
- 小結
- 年寄名跡
- 9代富士ヶ根 徳夫(二所ノ関) → 9代富士ヶ根 全陽(二所ノ関) → 9代富士ヶ根 全陽(春日野)
- 出身地
- 大阪府大阪市浪速区
- 本名
- 高橋 徳夫
- 生年月日
- 昭和39年(1964)12月14日(61歳)
- 出身高校
- 浪商高校・中退
- 所属部屋
- 二所ノ関部屋
- 改名歴
- 高橋 徳夫 → 高橋山 徳夫 → 大善 徳夫 → 大善 尊太
- 初土俵
- 昭和56年(1981)3月 前相撲(16歳3ヶ月)
- 新十両
- 昭和63年(1988)3月(所要42場所)
- 23歳3ヶ月(初土俵から7年0ヶ月)
- 新入幕
- 平成3年(1991)11月(所要64場所)
- 26歳11ヶ月(初土俵から10年8ヶ月)
- 新小結
- 平成6年(1994)3月(所要78場所)
- 29歳3ヶ月(初土俵から13年0ヶ月)
- 最終場所
- 平成15年(2003)3月場所(38歳3ヶ月)
- 大相撲歴
- 133場所(22年0ヶ月)
- 通算成績
- 739勝732敗61休1468出場(勝率.503)
- 通算133場所
- 勝ち越し65場所(勝ち越し率.492)(勝ち越し星173)
- 優勝等
- 十両優勝3回,幕下優勝1回(同点1)
- 受賞・金星
- 金星2個(曙1個、武蔵丸1個)
- 持給金
- 109円50銭(勝ち越し星173個 金星2個)
- 幕内戦歴
- 235勝290敗0休525出場(勝率.448)
- 在位35場所(在位率.263)
- 勝ち越し11場所(勝ち越し率.314)
- 三役戦歴
- 5勝10敗0休15出場(勝率.333)
- 在位1場所(在位率.008)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 小結戦歴
- 5勝10敗0休15出場(勝率.333)
- 在位1場所(在位率.008)
- 勝ち越し0場所(勝ち越し率.000)
- 前頭戦歴
- 230勝280敗0休510出場(勝率.451)
- 在位34場所(在位率.256)
- 勝ち越し11場所(勝ち越し率.324)
- 十両戦歴
- 299勝280敗36休576出場(勝率.519)
- 在位41場所(在位率.308)
- 勝ち越し21場所(勝ち越し率.512)
- 関取戦歴
- 534勝570敗36休1101出場(勝率.485)
- 在位76場所(在位率.571)
- 勝ち越し32場所(勝ち越し率.421)
- 幕下以下歴
- 205勝162敗25休367出場(勝率.559)
- 在位56場所(在位率.421)
- 勝ち越し33場所(勝ち越し率.589)
大善 尊太の更に詳細なデータは力士名鑑で!
名鑑ページでは、以下のような詳細な分析データをはじめ、豊富な表やグラフをご覧いただけます。
- ✅ 勝った決まり手1位:寄り切り(186回 / 34.3%)
- ✅ 負けた決まり手1位:寄り切り(140回 / 24.2%)
- ✅ 得意な相手:鬼雷砲(12勝4敗 / 勝率.750)
- ✅ 苦手な相手:金開山(1勝13敗 / 勝率.071)
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全勝での初優勝は武蔵丸以来22年ぶり
境川部屋としても初の幕内優勝力士誕生