阿武松部屋の歴史と注目ポイント、所属力士などをご紹介!

躍進著しい阿武咲が所属する阿武松部屋は⇒阿武松グループの相撲部屋です。

今回は阿武松部屋の歴史と特徴、そして所属力士などをご紹介していきます。

阿武松部屋の基本情報創設 :平成6年(1994年)10月
所在地:千葉県習志野市鷺沼5-15-14
師匠 :阿武松 広生(元関脇・益荒雄)
主な所属力士:阿武咲、慶天海

阿武松部屋の歴史

阿武松部屋は、平成2年(1990)7月場所を最後に現役を引退した元関脇・益荒雄が興した部屋です。

引退した当初の益荒雄は15代錣山を名乗っていました。この年寄株は元小結・若葉山から借りていたもので、押尾川部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていました。

押尾川部屋からの破門

しかし、独立して部屋を興したかった15代錣山(益荒雄)は、平成4年(1992)9月に阿武松の名跡を正式に取得し12代阿武松を襲名、それとともに部屋の師匠である17代押尾川(元大関・大麒麟)に分家独立を申し出ました。

ところがこの申し出に師匠が激怒、独立を許そうとはしませんでした。と言うのは前もって独立の意志があることを知らされておらず、さらに押尾川部屋は二所ノ関一門であるにもかかわらず、出羽海一門の名跡である「阿武松」を勝手に取得したからでした。

高校生であった手島少年(のちの益荒雄)を自らスカウトした17代押尾川親方の答えは、分家承認ではなく12代阿武松(益荒雄)に対する事実上の破門でした。

大鵬部屋への移籍、そして独立

部屋を追われた12代阿武松を救ってくれたのは、同じ二所ノ関一門の「大横綱」大鵬親方でした。一代年寄として大鵬部屋を率いていた大鵬親方は、窮した阿武松を自分の部屋の部屋付き親方として迎え入れてくれたのです。

そこでの約2年が過ぎた平成6年(1994)10月、阿武松は大鵬部屋から分家独立をしてようやく阿武松部屋を創設することが出来ました。

当初はちゃんとした施設がなかったため、一番弟子と親方の2人は、当時独身だった親方の自宅マンションで共同生活を送っていましたが、翌年の4月にようやく千葉県習志野市に部屋を構えることができました。

部屋初の関取が誕生

部屋を構えてから約6年ほど経った平成12年(2000)11月場所で、東の幕下4枚目だった古市が5勝2敗で勝ち越し、翌場所での十両昇進を果たしました(昇進時に小緑に改名、のちにまた古市に戻す)。

続く平成16年(2004)7月には片山が十両昇進、平成17年5月には入幕を果たし、部屋初の幕内力士が誕生します。

「阿武松部屋の秘蔵っ子」若荒雄

のちに部屋初となる三役小結力士・若荒雄は小学生のころから阿武松部屋に出入りしていた相撲少年でした。

親戚の家が阿武松部屋の近くにあり、阿武松部屋主催の相撲教室で相撲を学んだ八木ヶ谷(やきがや)少年は中学卒業直前の平成11年(1999)3月場所ではやくも初土俵を踏みます。

1年ちょっとで三段目までには上がったものの、そこからは三段目と幕下を行ったり来たりで気づけば7年が過ぎていました。

ようやく安定してきた平成18年(2006)11月は西の幕下筆頭で迎えるも2勝5敗と負け越し、また番付を下げてしまいます。そこから1年後の平成19年(2007)11月場所では、ようやく西の幕下3枚目まで戻しての4勝3敗となり、翌場所での十両昇進を果たします。

その後、平成21年(2009)7月に初入幕、一場所で跳ね返されてしまいますが、その後3度目の再入幕の時に番付を上げていき平成24年(2012)1月場所で小結に昇進を果たします。結局、わずか一場所限りの小結でしたが、この時の若荒雄が部屋初の三役力士となりました。

貴乃花親方への支持

弟子たちは順調に育った阿武松部屋でしたが、その間にも波乱がいくつかありました。

ひとつは平成22年(2010)1月に行われた相撲協会理事選挙での通称「貴の乱」への支持表明です。

これを簡単に説明すると…それまでの理事選は、あらかじめ各一門に割り当てられた人数があり、一門は内部でその人数分候補者を擁立することによって、本選は結局定数ちょうどによる無投票で理事が決まる、という「談合」が行われていたのですが、二所ノ関一門だった貴乃花親方は一門内での事前調整を拒否して自らが立候補、これによって「通常の選挙」へと持ち込んだのです。

しかし、ただ立候補しても票が集まらなければ理事にはなれませんよね。ところがこの貴乃花親方に応じる形で二所ノ関一門から「造反」が出たのです。それがこの阿武松親方や16代大嶽(元関脇・貴闘力)など6人の親方とその3部屋でした。

この行動によって貴乃花親方は理事に当選するも「造反組」と貴乃花親方は二所ノ関一門から事実上の破門を受けてしまいます。

こうして、しばらくは無党派の「貴乃花グループ」として活動していた各部屋でしたが、平成26年(2014)5月からは「貴乃花一門」として新しい一門を形成して現在に至っています。

野球賭博問題

もうひとつの波乱は「相撲界の暗い歴史」野球賭博問題です。

平成22年(2010)に発覚した大相撲野球賭博問題では現役の力士や親方など数十名が関与したとされ、解雇や謹慎休場などの処分を受けていますが、警視庁の捜査によると阿武松部屋を中心に角界へ野球賭博が広がったとみられていました。

家宅捜索の結果、野球賭博問題に関与した部屋の力士9人が謹慎処分に、力士数人と所属床山が相撲協会からの解雇処分と引退に追い込まれてしまいます。

その後、野球賭博の捜査過程から「大相撲八百長問題」が判明した一連の事件は、阿武松部屋のみならず、相撲界全体にとって大きな問題となったのでした。

阿武咲の躍進

平成29年は阿武松部屋にとって2人目の小結誕生の年になりました。

平成27年(2015)1月場所には所要13場所というスピード出世で新十両に昇進していた阿武咲ですが、一度は怪我の影響などもあり幕下に落ちるなど2年ほどは十両生活が続いていました。

しかし、徐々に成績が安定してくると持ち前の力を発揮して平成29年3月場所では千秋楽まで優勝争いに絡むなどの大健闘、翌5月場所での初入幕を果たします。そこからは一気に番付を駆け上がっていき11月場所には早くも小結への昇進を遂げました。若干21歳3ヶ月での新三役昇進は平成以降初土俵の力士のなかでは6番目の年少記録となっています。

遅咲きの阿夢露

平成14年(2002)5月に初土俵を踏んだロシア出身の阿夢露は、新十両までに約10年、初入幕までには約12年もの年月をかけたスロー出世でした。

12年という歳月には理由があり、それは二度の大怪我によって番付を大きく下げたからなのです。

一度目の怪我は幕下上位だった時で、左膝前十字靭帯損傷の重症で三段目下位まで番付が下がりました。そこからなんとか番付を上げて十両昇進を果たしますが、次は右膝十字靭帯断裂という重症を負ってしまい、1年間もの休場の結果、序二段にまで番付を下げてしまいました。

このとき阿武松親方は、10年間頑張ってきた阿夢露が大怪我を理由に辞めると言ってきても「よく頑張った」と送り出そうと思っていたそうですが、当の阿夢露は「もう一度化粧廻しをつける」との強い思いで相撲への復帰を諦めず、治療に専念し始めました。

そのかいあって1年ぶりに復帰した平成25年(2013)1月場所では序二段で7戦全勝で優勝、その後も番付を上げ続けて平成26年(2014)11月についに新入幕を果たすのでした。

その後は計9場所の幕内と5場所の十両を務めた阿夢露ですが、怪我の悩みは尽きずに左肩の筋断裂などで幕下へと番付を下げ、平成30年5月場所の2日目に、ついに引退を表明しました。

引退会見で阿夢露は、思い出の一番として平成23年(2011)11月場所の7日目を挙げました。この一番は、西の幕下2枚目だった阿夢露が千代鳳を破って勝ち越しを決め、新十両への昇進を手にした思い出の一番なのです。

阿武松親方は阿夢露のことを、「こつこつ辛抱してやる力士の典型で部屋の力士の手本となっている。勝って驕らず、負けて腐らない大相撲の根幹を学んでくれたことが嬉しい」と愛弟子に賛辞を送りました。

阿武松部屋の注目力士

ここからは阿武松部屋の注目力士をご紹介します。

 

若手の有望株!阿武咲

いま若手で1,2を争う勢いの力士と言えば阿武咲は外せないですね!

相撲どころである青森県出身の阿武咲(当時、打越少年)は5才の頃から相撲を始めており、宝富士も通っていた地元の中里道場で相撲の基礎を学びました。

小学6年生の時には全日本小学生相撲優勝大会で優勝、中学では中学生相撲選手権大会の無差別級で大会史上初となる2連覇を達成するなど早くも頭角を表していました。

阿武松親方との出会い

三本木農業高校に進学してからも活躍は続き、国体での優勝や、選抜高校相撲での団体戦優勝への貢献など打越の相撲への自信は深まっていきました。

その頃、阿武松親方は打越をスカウトしに行くのですが、強さはあるけれど試合に負けると舌を出している姿を見て、相手を敬う気持ちが足りないと感じたようです。

スカウトには来たけれど何かツテがあった訳でもなく、入門はしてくれないだろうと思っていた阿武松親方でしたが、これからの打越のためにも力士としての大切な心構えは伝えて帰ろうと思い直して「お前には謙虚さと感謝の気持ちが足りない」と想いを語り始めました。

すると、打越の口からは「弟子にしてください」という、阿武松にとっては意外な言葉が返ってきました。打越は、自分に対してこんなことを言ってくれる大人に初めて接したようで、そんな阿武松親方の言葉が胸深く伝わったからでした。

打越は高校を中退して阿武松部屋に入門、平成25年(2013)1月場所に阿武咲の四股名で初土俵を踏みました。

この四股名は地元の恩師が名付けたもので「土俵上で花が咲くように」との願いが込められているそうです。

阿武咲の出世記録

初土俵から13場所目となる平成27年1月場所には早くも新十両昇進を達成、番付発表時の18才5ヶ月と20日は昭和以降では10番目の若年スピード出世となります。

十両から新入幕までには約2年がかかりましたが、それでもまだ20才という若さ。

さらにそこからが阿武咲の凄さで、新入幕となる平成29年5月場所で10勝5敗の勝ち越しと共に敢闘賞も受賞、続く7月場所も10勝5敗で勝ち越し、さらに9月場所でも10勝5敗と新入幕から3場所連続の二桁勝利を達成。これは1場所15日制が定着した昭和24年(1949)夏場所以降では誰も達成していなかった快挙達成となったのです。

この連続勝ち越しによって11月場所では早くも新三役昇進となりました。この時、阿武咲は21才3ヶ月という若さであり、平成以降初土俵の力士のなかでは6番目の若年出世となっています。

バネを活かした速い突き押し相撲

阿武咲は下半身のバネの強さを活かして立ち合いとともに一気に突き押していく速攻相撲を得意としています。また身体の小ささもひとつの武器となっており、上手を取ろうとする相手の内側に速い動きで入っていき、一気に押し出していきます。それだけではなく、時には組んでも上手さを見せる阿武咲なのでこれからの進歩も楽しみな力士です。

速攻相撲が信条の阿武咲は取組時間がたいてい短めなので、ぜひ見逃さないように土俵に集中していてくださいね!

阿武松部屋の所属人員

ここからは阿武松部屋に所属する人員をご紹介いたします。
また、最新場所の機能的な番付表もご用意しています。様々な情報を並び替えて見ることが出来ます。
⇒機能的な最新番付表

師匠

12代阿武松(元関脇・益荒雄):福岡県
生年月日:昭和36年6月27日(62歳)
初土俵 :昭和54年3月場所(押尾川部屋)
最終場所:平成2年7月場所
生涯戦歴:387勝329敗73休711出場
優勝歴:十両優勝5回
受賞歴:殊勲賞2回・敢闘賞2回・技能賞1回・金星2個

力士

阿武松部屋所属力士の最新成績とより詳しい情報を知りたい方はこちらをどうぞ。 ⇒ 阿武松部屋所属力士の最新場所成績と基礎情報

部屋付き親方

年寄・12代不知火(元小結・ 若荒雄 ):千葉県
生年月日:昭和59年2月24日(40歳)
初土俵 :平成11年3月場所(阿武松部屋)
最終場所:平成26年9月場所
生涯戦歴:466勝444敗29休910出場
優勝歴:三段目優勝1回
受賞歴:敢闘賞1回

年寄・21代音羽山(元前頭8・ 大道 ):東京都
生年月日:昭和57年8月21日(41歳)
初土俵 :平成17年3月場所(阿武松部屋)
最終場所:平成28年1月場所
生涯戦歴:347勝333敗23休680出場
優勝歴:序二段優勝1回、序ノ口1回

床山

  • 一等床山・床貴(とこたか)(59歳):山口県
  • 五等床山・床雄(とこゆう)(27歳):長野県

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