峰崎部屋の歴史と注目ポイント、所属力士などをご紹介!

峰崎部屋(みねざきべや)は二所ノ関一門の相撲部屋です。
幕内力士として荒鷲が活躍する峰崎部屋の歴史と特徴、そして注目ポイントなどをご紹介していきます。

峰崎部屋の基本情報創設 :昭和63年(1988年)12月
所在地:東京都練馬区田柄2-20-3
師匠 :峰崎 修豪(元前頭2・三杉磯)
主な所属力士:荒鷲、豪頂山
備考:平成24年5月場所後に花籠部屋を吸収合併

峰崎部屋・相関図

峰崎部屋の歴史

峰崎部屋は、放駒部屋の部屋付き親方だった元幕内・三杉磯の7代峰崎親方が昭和63年(1988)12月に放駒部屋から分家独立して創設されました。

日本人力士にこだわり、長年外国人は入門させない方針であった峰崎部屋ですが、平成18年(2006年)3月に青森山田高校のモンゴル人留学生・透川(現・豪頂山)を入門させます。(青森山田高校は、卓球の福原愛選手やテニスの錦織圭選手の出身校として有名ですね!)

花籠部屋を吸収合併

平成24年(2012年)の春、経営困難に陥っていた花籠部屋との合併話が持ち上がります。峰崎部屋と花籠部屋は同じ二所ノ関一門、一門の繋がりはこういう時にも発揮されるんですね。

こうした話を受けた場所後の5月24日に日本相撲協会理事会が開かれ、峰崎部屋による花籠部屋の吸収合併が承認されます。これによって15代花籠親方(元関脇・太寿山)以下、13人が峰崎部屋所属となりました。

※ちなみに、花籠部屋からの移籍組で現在も峰崎部屋所属者をご紹介!

  • 部屋付き親方:15代花籠
  • 力士:荒鷲、大空、光源治、そして若肥前
  • 行司:3代木村 光之助
  • 呼出し:正男
  • 床山:床明

以上の8名です。

「花籠部屋」との深い縁は「三杉磯」の四股名に隠されている

ところで「花籠部屋」吸収には、同門以外にも深いワケがあるんです。

実は、師匠である7代峰崎・三杉磯も入門時は花籠部屋でした。と、言っても15代花籠が興した部屋とは別系統の部屋ですが。親方の現役時の四股名である「三杉磯」は、昭和4年(1929年)に伊勢ノ海部屋から分家独立し、初代花籠部屋を創設した9代花籠の現役時の四股名(元関脇・三杉磯)と同じなんです。いわば花籠部屋の由緒正しい四股名なんですね。

7代峰崎が所属していた花籠部屋は、11代花籠(元幕内・大ノ海)が興し、古くは横綱・若乃花(初代)が活躍したいわば「2代目花籠部屋」でした。

兄弟子としては横綱・輪島も在籍していた花籠部屋でしたが、12代花籠(元横綱・輪島)の不祥事によって部屋が消滅すると、三杉磯は放駒部屋へと移籍していくのでした。

花籠部屋伝統の四股名を名乗り、自身も部屋の消滅にあった三杉磯が、「3代目花籠部屋」の危機を救った…のかもしれませんね。

荒鷲の「荒」は荒磯部屋出身の証

移籍&四股名エピソードをもうひとつ。

花籠部屋から移籍してきた荒鷲ですが、実はその前には荒磯部屋に在籍していました。

平成20年(2008年)9月場所を最後に部屋を閉じた荒磯部屋から花籠部屋に移籍していた荒鷲ですが、その4年後には、また部屋を移籍することになったのです。

部屋は無くなりましたが、四股名には荒磯部屋の証が残されています。

力士たちの四股名も、こうやって歴史を追っていくと色々と面白いですよ。これも相撲の楽しみ方のひとつです!

峰崎部屋初の関取誕生

さて、花籠部屋の吸収合併によって峰崎部屋の歴史は大きく動きます。

平成24年(2012年)7月場所で東の幕下4枚目だった荒鷲が4勝3敗で勝ち越し、翌9月場所では十両に再昇進します(自身は花籠部屋で十両経験あり)。

これが峰崎部屋にとっては初めての関取誕生となりました。その後、平成26年(2014年)5月場所では荒鷲自身も初となる新入幕を果たし、同時に部屋にとっての初幕内力士誕生となりました。

峰崎部屋の注目ポイント

ここからは峰崎部屋の注目ポイントをご紹介していきます。ちょっと偏った見かたかもしれませんが、これも相撲の楽しみ方ということで…。

荒鷲の金星ハンターっぷりに注目

平成29年(2017年)1月場所は6勝9敗に終わった荒鷲ですが、6勝のうちの2勝は横綱からの勝ち、つまり金星だったんです(平幕が横綱に勝つことを金星と言います)。

金星までの経緯もなかなかで、初日から5連敗のあと6日目に鶴竜から金星、翌日宝富士に負けて、その翌日には白鵬から金星と、8日目時点では2勝6敗、つまり勝ちは金星のみというハンターっぷりでした。

翌3月場所も3勝10敗2休の成績でしたが、その3勝のうちの1勝は稀勢の里からの金星でした。

負けているのにちゃっかり金星を奪っていく荒鷲。次の金星に注目です。

三段目7戦全勝の満津田

部屋生え抜きの関取誕生が待たれる峰崎部屋ですが、期待の力士がいますよ。

それは、平成29年(2017年)9月場所の三段目で7戦全勝の優勝同点だった満津田(まつだ)です。

千秋楽の決勝戦では宮城野部屋の炎鵬(白鵬の内弟子で、こちらも注目力士)に惜しくも破れましたが、かなりの善戦でしたよ!そして、この場所の初日では三室岳を相手に「二枚蹴り」という珍しい決まり手での勝利も(実は、これまでにも4度決めているようです)。なかなか面白そうな力士ですよね。

ちなみに満津田という四股名ですが、これは地元長野の飯田市が誇る老舗食堂『満津田食堂』が実家だからなのです。なんと明治20年創業らしいですよ!

まだまだこれからの若手ですが、峰崎部屋の満津田に注目しましょう。

木村銀治郎の相撲愛

次は行司の木村銀治郎(ぎんじろう)にご注目。

まずはこの「木村銀治郎」という名前ですが、峰崎部屋伝統の行司名跡で、現在で3代目にあたります。

初代は明治10年(1877年)1月場所が初土俵だった行司さんで本名が銀治郎でした。入門は桐山部屋でしたが、初代峰崎の養子となり、初代が亡くなってからは二枚鑑札(力士や行司が年寄を兼務すること)で2代峰崎を襲名しました。

その後、2代峰崎は峰崎部屋を創設、所属していた行司は2代木村銀治郎を襲名することになります。2代銀治郎が亡くなった昭和5年(1930年)以降は長らく名が途絶えていた銀治郎ですが、平成26年(2014年)11月場所より幕内格に昇進した木村堅治郎が3代木村銀治郎を襲名しました。

さて、前置きが長くなりましたが、このときの襲名は当時の堅治郎自らが願い出て実現したそうです。これは、峰崎部屋に所属する者として銀治郎の名跡を埋もれさせてはならないという想いからでした。これによって84年ぶりに木村銀治郎の名が復活するわけです。

このように、銀治郎はなかなかの行動派です。相撲の普及活動にも力を入れており、小中学校での課外授業やラジオ出演、さらに様々なイベントに積極的に参加して相撲の魅力を伝えています。2009年には芸術家の協力のもと、プロ野球の試合で折れたバットを素材にした、新しい軍配を作成して使用したことも。2012年初場所の土俵祭では、前年の東日本大震災で被害を受けた岩手県大槌町の清酒「浜娘」をお神酒として使用しました。

峰崎部屋の新弟子勧誘の際にも一役買っており、デザイナーにチラシの制作を依頼して、入門から横綱昇進までの相撲人生を分かりやすく表現した「相撲すごろく」を作成、さらにはチラシの裏面に力士の給料や現役引退後のことまで載せるきめ細かい対応も。

このように、伝統を大切にする姿勢と、新しいアプローチを試みる柔軟さを兼ね備えた木村銀治郎さんに注目です。

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