田子ノ浦部屋の歴史と特徴、所属力士をご紹介!

相撲のぼり

田子ノ浦部屋(たごのうらべや)は二所ノ関一門の相撲部屋で、第72代横綱・稀勢の里、大関・高安などが所属しています。

久しぶりの日本人横綱・稀勢の里が誕生したことによって、俄然注目されている田子ノ浦部屋についてまとめてみました。

部屋の歴史と特徴、そして所属力士などをご紹介していきます。

田子ノ浦部屋の基本情報 創設 :平成元年(1989年)2月1日
所在地:東京都江戸川区東小岩4-9-20
師匠 :田子ノ浦 伸一(元前頭8・隆の鶴)
主な所属力士:稀勢の里、高安
備考:鳴戸部屋として創立、平成25年12月に田子ノ浦へと名跡変更

田子ノ浦部屋の歴史

田子ノ浦部屋は元横綱・隆の里が創設した鳴戸部屋が前身ですが、紆余曲折を経て現在の部屋になっています。

その経緯を追って見ていきましょう。

鳴戸部屋の創設と成長

二子山部屋の部屋付き親方だった元横綱・隆の里の13代鳴戸親方が、平成元年(1989年)2月1日付で分家独立し、千葉県松戸市にて鳴門部屋を創設しました。

平成13年(2001年)に関脇・若の里、平成15年(2003年)には関脇・隆乃若が誕生。

さらに平成21年(2009年)には稀勢の里が関脇に昇進。その後、高安や隆の山も入幕を果たし、13代率いる鳴戸部屋は徐々に成長していきます。

親方の急逝

しかし、平成23年(2011年)の九州場所を目前とした11月7日に、13代鳴戸親方は急逝してしまいます。

突然の訃報を受けた日本相撲協会は翌8日に緊急理事会を行い、部屋付き親方だった9代西岩(元前頭8枚目・隆の鶴)が鳴戸の名跡を取得することで部屋を継承することになりました。

場所後に大関昇進が決定した稀勢の里は、亡き師匠の遺影の前で協会からの使者を迎えたのでした。

稀勢の里がよく「先代の親方」と言っているのは、この13代鳴戸親方、隆の里のことなのです。

鳴戸部屋から田子ノ浦部屋へ

その後、鳴戸部屋を率いていた14代鳴戸の隆の鶴ですが、平成25年に問題が起きます。

日本相撲協会は平成26年(2014年)から公益財団法人へと移行するのに伴い、年寄名跡を協会側で一括管理することにしました。

そのため各年寄に対して平成25年(2013年)12月20日までに、協会への年寄名跡証書提出を求めます。それまでは各親方などが、それぞれ証書を所持していたのですね。

しかし14代鳴戸は年寄名跡証書を所持していませんでした。誰が持っていたかというと、故先代親方の夫人なのです。

13代が亡くなった後、すぐに鳴戸を襲名した14代でしたが、証書は未亡人となった先代夫人が所持していました。いわゆる「借株」のまま部屋を継承していたのです。

その証書を提出する必要があった14代鳴戸でしたが、故先代親方夫人との間で話がまとまらず、期限であった12月20日までに協会に提出することができませんでした。

そこで14代鳴戸は急遽、別の名跡を取得する策を打ちます。

それは、平成24年(2012年)2月に急逝した14代田子ノ浦(元前頭筆頭・九島海)の夫人が所有していた年寄・田子ノ浦の名跡を取得することでした。

夫人から証書を取得することができた14代鳴戸は、期限は過ぎていましたが平成25年12月25日に日本相撲協会へと名跡証書を提出、同時に16代田子ノ浦を襲名することができました。※1

これに伴い、部屋の名称も鳴戸部屋から田子ノ浦部屋へと変更され、所属力士や行司なども全てそのまま田子ノ浦部屋所属になりました。

(※1)15代田子ノ浦は、借株だった元前頭6枚目・金開山

部屋の転居と新たな部屋設立

ところがまだ問題があります。

鳴戸部屋の施設は先代鳴戸夫人の所有物件、物別れに終わった夫人が持つその部屋はもう使えません。

さらに名跡を取得した旧田子ノ浦部屋(東京・江東区)の施設からも既に土俵は撤去されており、そこに移ることもできません。

そこで白羽の矢が立ったのは、同年10月に閉鎖された三保ヶ関部屋の旧施設でした。

自前の部屋を新築するまでの間、墨田区のその施設を仮設の部屋として、約1年間使用することになります。

やがて、平成26年(2014年)12月14日には江戸川区に新施設が完成し、部屋開きを行いました。

横綱・稀勢の里と大関・高安の誕生

平成29年(2017年)1月場所において、大関・稀勢の里が自身初優勝を遂げます。

先代親方のもとに入門した16歳の頃から、実に15年が過ぎていました。場所後には稀勢の里が横綱昇進を果たし、鳴戸部屋を経た田子ノ浦部屋として初の横綱が誕生しました。

高安も稀勢の里に続けとばかりに躍進します。平成29年5月場所に11勝をあげた高安は、3場所連続の好成績(34勝)が認められて場所後に大関昇進を果たしました。

先代親方のもとで修業を積んできた稀勢の里と高安が横綱と大関になり、役力士2人を擁する部屋にまでなりました。

田子ノ浦部屋の特徴

相撲界では他の部屋に出向いて稽古をする「出稽古」というものがあり、各部屋が積極的に出向いたり受け入れています。

しかし、田子ノ浦部屋は他の部屋とは違い、伝統的に出稽古をしてきませんでした。

出稽古禁止は先代親方の教え

これは先代の親方(隆の里)が出稽古を認めなかったためです。

本場所の土俵で全力で相手を倒すためには、たとえ稽古といえども他の部屋の力士と付き合うべきではない、馴れ合っていては全力を出せないと考えていたのです。

そのため田子ノ浦部屋では、自分たちの部屋のなかだけで、ひたすら稽古を重ねてきました。

しかし、こうした稽古の仕方には批判の声もありました。

それは大関・稀勢の里と高安の実力差があった時期が長かったため、稀勢の里にとっては稽古になっていないのでは?という理由からです。

「なかなか横綱に昇進出来ないのは出稽古もせずに高安とばかり稽古をしているからでは?」という批判の声でしたが、稀勢の里は先代親方の教えを守り、ひたすらに高安と稽古を積んできました。

やがて高安も実力をつけて稽古で互角近くにまで渡り合えるようになると、稀勢の里は横綱へ、高安は大関へと実を結ぶことになります。

稀勢の里と高安の兄弟弟子の強い絆は、こういう背景があるのです。

次の段階を求めて出稽古へ

こうして先代親方が亡くなってからも続いていた出稽古禁止の教えでしたが、平成29年(2017年)3月場所での怪我により調整が出遅れた稀勢の里は5月場所を前にして出稽古をするようになりました。

また、大関取りを目指していた高安も、兄弟子・稀勢の里の怪我によって十分な稽古が出来なくなり、満足した稽古を求めて出稽古をするようになっています。

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