舛乃山や隆の勝といった人気力士を擁していた千賀ノ浦部屋ですが、貴乃花部屋力士の合流により一躍世間的な知名度がアップした感がありますよね。
今回はこの千賀ノ浦部屋の歴史と注目ポイント、そして所属力士などをご紹介していきます。
創設 :平成16年(2004年)9月27日
創設者:19代・千賀ノ浦 靖仁(元関脇・舛田山)
現師匠:20代・千賀ノ浦 太一(元小結・隆三杉)
現住所:東京都台東区橋場1-16-5
この記事の目次
千賀ノ浦部屋の歴史
千賀ノ浦部屋は、春日野部屋の部屋付き親方だった19代千賀ノ浦の舛田山(元関脇)が平成16年(2004)9月場所後に分家独立して部屋を興したのが始まりです。
4人の内弟子と53歳での船出
千賀ノ浦親方はすでに53歳でしたが、内弟子だった4人と行司1人(木村秀明)を連れて東京台東区橋場にあった旧高砂部屋を買い取り船出したのでした。
この時の4人の内弟子は栃の山(現・世話人)と栃ノ波(現・鰤乃里)、そして引退した竹内(のちの越前山)と岩山(のちの屋久ノ島)です。
実は、同郷であり拓殖大学の後輩でもあった栃乃洋(現・竹縄親方)にも移籍の話があったようですが、春日野部屋に入門してすでに8年が経ち、また関脇まで務めていた栃乃洋は部屋に留まることを選択したようです。
舛田山の現役時代
ここで少し舛田山の現役時代を振り返ってみましょう。
石川県七尾市出身の舛田 茂さん(本名)は、中学から相撲を本格的に始めて高校時代には全国高等学校相撲選手権大会の個人戦で優勝し高校横綱の称号を手にしました。その後、拓殖大学に進学すると全国学生相撲選手権大会で決勝進出など目覚ましい活躍をみせます。
大学卒業後には金沢市役所への就職が内定していましたが、角界入りを決意し誘いを受けていた春日野部屋の門を叩きました。
初土俵は昭和49年(1974)3月場所、幕下最下位格付出で初土俵を踏むとそのまま5場所連続勝ち越し、これにより昭和50年(1975)1月場所での新十両昇進を決めました。
昭和50年7月場所では右かかとを骨折し途中休場を経験、それ以降はしばらく低迷時期もありましたが昭和51年(1976)11月場所で待望の新入幕を果たします。
叩きの名人
新入幕から約4年後の昭和56年(1981)1月場所には小結にまで昇進しましたが同年9月場所で左足腿腱筋を断裂、これにより十両にまで陥落してしまいます。この怪我の影響は力士人生に大きく影響を及ぼし、それまでは突き押しが得意だった桝田山ですが徹底的に叩く相撲への転向を迫られました。
しかし、この「叩く相撲」は舛田山に合っていたようで順調に番付を回復していき再入幕後の昭和58年(1983)7月場所には再小結、翌9月場所では最高位となる関脇にまで昇進します。この頃には対戦相手からも「叩きの名人」として一目置かれる存在になっていたようです。
その後、幕内と十両の土俵を長く務めた舛田山でしたが、平成元年(1989)7月場所を最後に38歳で現役を引退。幕内通算47場所、十両も39場所務め上げた名脇役と言えるでしょう。
部屋初の関取誕生
さて、話を千賀ノ浦部屋へと戻しましょう。
38歳で現役を引退し、53歳で部屋を創設した千賀ノ浦親方は自身と同じ学生相撲出身者を入門させて部屋の発展に尽力しましたが、初めに大きく花開いた力士は学生相撲出身者ではなく中学卒業入門のいわゆる「叩き上げ」力士でした。
中学3年生の時、両親の離婚により母親の故郷フィリピンへ移り住んでいた加藤少年は、母と弟を支えるために日本で力士になることを決意します。脳裏に浮かぶのは以前に部屋を見学したことがあった千賀ノ浦部屋であり、そのとき熱心に誘ってくれた千賀ノ浦親方でした。
さっそく千賀ノ浦親方に連絡をとってみると親方は快諾、加藤のみならず母親の渡航費用も捻出してくれて日本への帰国が決まります。
平成18年(2006)7月場所に「舛ノ山」の四股名で初土俵を踏むと恵まれた体格とハングリー精神旺盛な猛稽古で順調に番付を駆け上がり、入門からわずか4年となる平成22年(2010)11月場所には新十両として番付に名を連ねました。
この時舛ノ山は20歳と0ヶ月。これは高安とともに平成生まれ初の関取でした。そして千賀ノ浦部屋にとっても創設6年目にして初の関取誕生だったのです。
移籍して来た13代稲川
創設以来、師匠自らが指導してきた千賀ノ浦部屋でしたが平成26年(2014)6月に、当時所属して出羽海一門の本家出羽海部屋から13代稲川(元小結・普天王)が部屋付き親方として移籍して来ました。
これにより部屋の指導は厚みを増しましたが、稲川は僅か2年後の平成28年(2016)5月に木瀬部屋へと移籍してしまいます。なぜ去ってしまったのか?話をすすめていきましょう。
千賀ノ浦部屋の後継者問題
53歳で部屋創設をした19代千賀ノ浦(元関脇・舛田山)にとって12年目となる平成28年(2016)は師匠として最後の年でした。同年4月に迫った19代の停年退職のため年明けから後継者探しが始まりましたがこれが予想以上に難航します。
元々、稲川の移籍時には部屋の継承を前提との一部報道もあり、すんなりと稲川が後継者におさまると思われていましたが何故かこの話は立ち消えに。
次に出身母体の春日野部屋や所属する出羽海一門から後継者が検討されましたが擁立することが出来ませんでした。さらに一門の他の部屋との合併も検討されましたがこれも折り合いがつかずに断念することになりました。
こうして難航した後継者探しですが、親方は「一門の枠を越える」ことに活路を見出します。
門外の貴乃花部屋から親方を招聘
19代千賀ノ浦は、当時貴乃花部屋の部屋付き親方だった15代常盤山(元小結・隆三杉)へと師匠への就任を打診、これを常盤山は了承して平成28年(2016)4月8日付けで19代と名跡を交換し20代千賀ノ浦を襲名、千賀ノ浦部屋を継承しました。そして16代常盤山となった舛田山は停年後に再雇用制度を利用して部屋付き親方へと就任しました。
出羽海一門から貴乃花一門へ
この継承によって当初出羽海一門だった千賀ノ浦部屋は貴乃花一門(当時)へと移籍することになります。
また部屋付き親方だった13代稲川は貴乃花一門へ移ることも、また20代のもとに付くことも良しとせず、出羽海一門の木瀬部屋へと移籍していきました。
「舛」の勝から「隆」の勝へ
20代千賀ノ浦が部屋を率いはじめて約1年半となる平成29年9月場所にはひとつの成果が現れます。
この場所、東幕下3枚目で6勝1敗と勝ち越しを決めた舛の勝は場所後に新十両昇進を決めます。これは20代千賀ノ浦が親方になってから初の関取となりました。
この十両昇進にあわせて舛の勝は四股名を「隆の勝」に改めます。「隆」の字は親方の現役時の四股名である「隆三杉」から1字を頂いたもの。
この「隆三杉」という四股名は二子山部屋の兄弟子だった第59代横綱・隆の里と2代目若乃花(若三杉)につけてもらった愛着のあるものであり、20代千賀ノ浦は「隆」の字を弟子につけることが長年の夢だったようです。
こうして、これまでは先代親方(舛田山)の「舛」の字が千賀ノ浦部屋力士の象徴でもありましたが、除々に20代千賀ノ浦の体制へとシフトしていくことを感じさせる出来事でした。
貴乃花部屋からの力士受け入れ
貴乃花一門として貴乃花と活動を共にしていた千賀ノ浦部屋ですが、貴乃花一門の消滅による阿武松グループへの名称変更、さらに二所ノ関一門への帰属というように目まぐるしく状況が変化していきます。
そして平成30年9月25日に貴乃花親方は引退会見を開き、弟子や床山・世話人たちの千賀ノ浦部屋への移籍と部屋の閉鎖を発表。紆余曲折ありましたが10月1日に相撲協会が届け出が認めたことにより、貴乃花親方の退職と弟子たちの千賀ノ浦部屋への移籍が決まりました。
二所ノ関一門へ
紆余曲折を経て千賀ノ浦部屋は二所ノ関一門への所属が決まりました。20代千賀ノ浦(元小結・隆三杉)にとっては現役時に所属して二所ノ関一門。
長い年月を経て、原点に回帰したと言えるかもしれませんね。
千賀ノ浦部屋の注目ポイント
ここからは千賀ノ浦部屋の注目ポイントをご紹介していきます。
爽快なまでに怯まない貴景勝
いま、相撲界では有力な若手が伸びてきていますが貴景勝もその一人。
平成26年(2014)9月の初土俵から所要13場所で初入幕を果たした佐藤は四股名を貴景勝(たかけいしょう)に改めます。この名は有名な戦国武将、上杉謙信の後を継いだ上杉景勝(かげかつ)にちなんだものです。なぜ景勝かというと、貴乃花親方は大の上杉謙信公好きで、その後を継いだ景勝の名を、親方として初めて関取に育て上げた日本人力士の佐藤(貴景勝)に重ね合わせて名付けたのです。
また名前といえば、佐藤の本名は佐藤貴信で「貴」の字が入っています。これは貴乃花ファンだった父親がつけた名前なんですよ。
高校在学のまま角界入り
子供の頃から空手を習っていた佐藤ですが、小学校3年生の時に空手の全国大会の決勝で判定敗けを受けたことに納得がいかず、「判定」がある競技はやりたくないとの思いから相撲に転向します。
中学は相撲の強豪校「報徳学園中学校」に進学し、三年生のときに全国中学生相撲選手権大会にて優勝、中学生横綱のタイトルを獲得しました。
高校はこれまた相撲の名門校「埼玉栄高校」に入学、数々のタイトルを獲得します。高校三年生の頃には角界入りへの気持ちが抑えきれずに、高校在学のまま平成26年9月に貴乃花部屋へと入門。翌11月場所では序ノ口で全勝優勝を決めると、続く1月場所でも全勝で序二段優勝、高校卒業となる3月場所では早くも三段目18枚目まで番付を上げていました。
そのまま番付を下げることなく1年後の平成28年3月場所では全勝で幕下優勝、十両昇進後の11月場所では12勝で十両優勝を決めると、平成29年(2017)1月場所の番付には東の前頭12枚目で貴景勝の四股名が載りました。
旧・貴乃花部屋初の新三役
平成29年11月場所で西の前頭筆頭だった貴景勝は11勝4敗と好調、準優勝に値する成績を残しました。また金星もふたつ獲得しましたが、そのうちのひとつは奇しくも「貴乃花部屋因縁の相手」日馬富士で、しかも日馬富士にとっては現役最後の相手が貴景勝となったのでした。※1
この活躍によって平成30年初場所の番付発表では、貴乃花部屋に改称してからは初となる新三役へと昇進しました。
※1:貴景勝と日馬富士は平成29年11月場所2日目に対戦、翌日から休場となった日馬富士の3日目の成績は不戦敗で相手は玉鷲
阿武咲とのライバル関係
同じ年齢の阿武咲とは、実は子供の頃から切磋琢磨してきたライバル関係にあります。入門は高校中退で角界入りした阿武咲が1年半ほど先ですが、入幕は貴景勝の方が2場所ほど先。しかし平成29年5月に新入幕となった阿武咲の勢いは留まることを知らず、三役昇進は阿武咲が先に決めています。
土俵を降りると大の親友同士ですが、それが故に土俵上ではお互いに意識しあっているようで気合の入った取組を見ることができます。
ふてぶてしい態度とは裏腹の礼儀正しい力士
土俵上ではどんな相手でも物怖じせずにふてぶてしい態度で、塩をまくのも投げ捨てるような(最近は少しマシになった?)姿が印象的な貴景勝ですが、いざインタビューでの話を聞いていると本当に礼儀正しくて謙虚で、また自分の考えをしっかりと持っている貴景勝。
土俵上での取り口をあらためて見てみると、ちいさな身体ながら強力な突き押しでどんどん攻めていくのですが、しっかりと相手を見ているため効果的に突きが決まっている。また、押すだけではなく機を見ていなす相撲勘の良さも特徴です。
双子の貴源治と貴公俊
相撲界には兄弟力士は珍しくなく、兄弟揃って関取経験者という例がいくつもあります。有名なところで言えばもちろん貴乃花親方の若貴兄弟ですが、ほかにも逆鉾(井筒親方)、寺尾(錣山親方)、そして元十両・鶴嶺山の井筒三兄弟、小城ノ花(出羽海親方)と小城錦(中立親方)の小岩井兄弟、現役でみると千代丸と千代鳳の木下兄弟に英乃海と翔猿の岩崎兄弟等々…他にもたくさんいます。関取に限らなければさらに増えていきますよ。
では、双子での関取経験兄弟は?これは、「大相撲史上」貴源治(たかげんじ)に貴公俊(たかよしとし)の上山兄弟しかいないのです!
バスケットボールから相撲界へ
兄が貴公俊(剛)で弟が貴源治(賢)の上山兄弟ですが、中学の頃はバスケットボールの選手として茨城県選抜メンバーに選ばれて全国3位になるほどの腕前でした。当然、バスケの強豪高校からは多くのスカウトが来たようですが、父親の強い勧めもあり、相撲未経験でありながら中学卒業と同時に貴乃花部屋への入門を決めます。
前相撲ではともに2勝2敗の二番出世でしたが相撲未経験ということを考えれば上出来。その後は天性の運動能力の高さからそれぞれが番付を上げていき、入門から2年後の平成27年(2015)3月場所で共に幕下へと昇格しました。
貴源治が十両へ一歩リード
その後、幕下で揉まれながらも定着していった貴公俊に対して貴源治は幕下陥落を二度経験し、なかなか幕下で勝ち越せないでいました。1年ほどはそんな状態が続きましたが、三度目の幕下昇進となった平成28年の初場所で優勝決定戦を経験、そこから徐々に波に乗ってきた貴源治は平成29年(2017)3月の場所後には十両への昇進を決めました。翌5月場所では11敗の大負けであえなく陥落となりますが3場所で再び十両に戻ります。
史上初の双子関取が誕生
一方の貴公俊は幕下に定着したものの中位で足踏み状態が続いていました。
しかし、じわりじわりと番付をあげて平成30年(2018)1月場所は東の幕下6枚目で迎えます。この場所は4勝3敗とひとつの勝ち越しで、本来であればまだ十両に昇進できるような勝ち星でも番付でもありませんでしたが、ここで幸運が。
怪我や様々な理由で幕下陥落力士が7人ほど見込まれる状況が貴公俊の十両昇進を後押しして、平成30年(2018)1月31日の番付編成会議によって新十両昇進が決定しました。
貴源治の十両昇進の際には「涙が出そうなくらい悔しかった。うれしさ6割、悔しさ4割」と複雑な心境を語っていた貴公俊ですが、弟に遅れること1年で同じ十両の土俵を踏むことになりました。
兄弟揃って関取というのは珍しくないのですが、双子が揃って関取というのは、記録が残る限りでは大相撲史上初のことです。凄いですね。