元大関・琴欧洲が親方の【鳴戸部屋】はどんな部屋?歴史も解説

現役時代は長身の甘いマスクで人気だった元大関・琴欧洲が創設した鳴戸部屋は、二所ノ関一門の相撲部屋です。

まだ歴史の浅い鳴戸部屋ではありますが、親方の現役時のエピソードも交えながら部屋のご紹介をしていきたいと思います。

鳴戸部屋の基本情報 創設 :平成29年(2017)4月1日
創設者:15代・鳴戸 勝紀(元大関・琴欧洲)
現師匠:同上
一門 :二所ノ関一門
所在地:東京都墨田区向島1丁目22−16

鳴戸部屋・系統図

鳴戸部屋の歴史

平成26年(2014)3月場所を最後に現役を引退した元大関・琴欧州でしたが、引退時点では年寄株を取得していませんでした。

しかし大関だった力士には3年間は現役名のまま「年寄」として相撲協会に残れる特例があり、これにより琴欧洲も「年寄・琴欧洲」を名乗り、佐渡ヶ嶽部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たることになります。

その後、鳴戸の名跡を取得した琴欧洲は平成27年(2015)2月12日の理事会で15代鳴戸の襲名が承認されました。

先代の師匠だった元横綱・琴櫻からも「大関になったから独立してもいいぞ」と言われていた琴欧洲は、平成29年(2017)4月1日に2人の内弟子を連れて分家独立し鳴戸部屋を創設します。この鳴戸部屋は大相撲史上初となるヨーロッパ出身力士が興した部屋となりました。

鳴戸部屋の部屋開き

平成29年4月1日に鳴戸部屋の部屋開きが行われましたが、この部屋は仮住まいでした。

平成31年(2019)4月に完成した新しい鳴戸部屋には鳴戸親方も家族と共に同居しています。

三段目力士が起こした暴行事件

新興部屋なのにか、はたまた新興部屋が故にかは分かりませんが鳴戸部屋でも暴行事件が起きてしまいました。

平成31年(2019)1月31日に日本相撲協会は、鳴戸部屋の三段目力士が未成年の弟弟子に対し度々暴行を加えていたことを公表しました。

暴行の理由としては、弟弟子が身の回りをあまり片付けないことや、仕事を失敗した事などを挙げているようですが、どのような理由であっても暴行という手段はいけません。

被害者が1月13日にマネージャーに相談したことでようやく事態を把握した鳴戸親方は相撲協会に直ちに報告、協会の暴力禁止規定に基づき暫定措置として加害力士は初場所出場を自粛しました。

そして場所後である2月8日に日本相撲協会のコンプライアンス委員会は三段目力士の行為は悪質だとして「引退勧告相当」の意見を理事長に答申、鳴戸親方は加害力士の引退届を提出し協会はこれを受理しました。

また、鳴戸親方に対しては監督がじゅうぶんでは無かったとして3か月間の10%減給処分が決議されました。

監督不十分の理由としては、仮設の部屋だったため親方は同居しておらず、また多忙でもあり留守がちだったことも要因のひとつと見られているようです。

 

琴欧洲の経歴

ここで師匠である鳴戸親方の経歴を振り返ってみましょう。

レスリングから相撲へ

現在は帰化して安藤カロヤンという名前の鳴戸親方ですが、ブルガリア時代はカロヤン・ステファノフ・マハリャノフという名前で、父親はレスリングのブルガリア王者でした。

少年時代には父親にレスリングの基礎を習い、父親と同じレスリングの道を進んでいたカロヤン少年は、17歳の時にレスリング欧州ジュニアチャンピオンになります。

次はオリンピック出場を目指して更なる練習に励んでいましたが、レスリングから無差別級が廃止され、体重の上限が下げられたことにより、長身だったカロヤン少年はその道を断念せざるを得なくなります。

しかしこれが相撲へと舵を切るきっかけとなったのです。

これまでもレスリングのトレーニングとして相撲は行っていたカロヤンでしたが、その相撲に本格的に取り組み始めるとメキメキと頭角を現し、ヨーロッパ相撲選手権大会では個人3位の成績をあげるなど、様々な大会で活躍をみせるようになります。

佐渡ヶ嶽部屋へ入門

この活躍はドイツ大会の会場を訪れていたドイツ在住の元床山の目にも留まり、床山時代に所属していた佐渡ヶ嶽部屋へとスカウトされて入門、平成14年(2002)11月に初土俵を踏むことになります。

四股名の由来はヨーロッパ出身から

四股名はヨーロッパ(欧州)出身であることから「琴欧州(のち琴欧洲)」に決まりました。

次に下の名前は、師匠である元横綱・琴櫻 傑將(ことざくら まさかつ)の読みから「かつ(勝)」と、師匠の本名「鎌谷 紀雄」から「紀」の字を頂き、琴欧州 勝紀(ことおうしゅう かつのり)としました。

平成18年(2006)9月場所後にはより良い画数を、とのことで「州」を「洲」へと改めています。これ以降は琴欧洲で表記を統一していきますね。

因みに佐渡ヶ嶽親方は、もしも琴欧洲が横綱へと昇進したら自身の四股名から「櫻」の字を譲って「琴櫻洲(ことおうしゅう)」へと改名させることも一時は考えていたそうです。

史上最速、所要19場所での大関昇進

平成14年(2002)11月に初土俵を踏んだ琴欧洲の出世のスピードは目覚ましいものでした。

東幕下2枚目だった平成16年(2004)3月場所を全勝優勝で飾った琴欧洲は場所後に新十両昇進を決めると、十両2場所目で十両優勝、翌9月場所では早くも新入幕となります。ここまで初土俵から12場所。

さらに平成17年(2005)3月場所には小結に昇進して新三役、新関脇に昇進した平成17年9月には13勝2敗で優勝決定戦に進むという快挙を成し遂げます。

惜しくも決定戦では朝青龍に敗れはしましたが優勝同点という好成績。さらに新関脇で初日からの12連勝は年6場所制になってからの新記録、13勝の勝ち星は史上最多タイという大活躍だったのです。

翌場所も11勝4敗で準優勝という好成績に加えて殊勲と敢闘賞を受賞した琴欧洲は、場所後に新大関昇進伝達の使者を迎えることになりました。

初土俵から所要わずか19場所というこの大関昇進は、年6場所制が定着した昭和33年(1958)以降、幕下付出を除いて史上最速という記録でした。

念願の初優勝

ここまでは順調に昇進を重ねた琴欧洲ですが、大関昇進後は一転して苦戦を強いられることになります。

平成18年は2桁勝利が3場所、平成19年はなんと2桁勝利がゼロという惨憺たる成績に終わってしまった琴欧洲。

明けて平成20年も初場所は9勝6敗、3月場所は4日目に腕を痛めた為9日目から休場となりわずか2勝どまりとなってしまいました。

大関に昇進してからのこうした不振の一因には、「大関という重圧」が相撲のスケールを小さくしてしまったことにあり、自身も引退後には、大関というプレッシャーに押しつぶされそうになって神経質になり過ぎていた、と語ってもいます。

しかし、こうしてカド番で迎えた平成20年(2008)5月場所は、それまでの不振がウソのような大活躍をみせます。

初日から連勝を重ねていくと11日目に朝青龍、12日目に白鵬という両横綱を破り12連勝を飾った琴欧洲。13日目には苦手だった安美錦に敗れますが、14日目に安馬(のちの日馬富士)を降して幕内での初優勝を決めました。

佐渡ヶ嶽部屋としては平成13年(2001)9月場所の琴光喜以来、約7年ぶりの優勝力士誕生でした。

大関在位47場所、そして引退

幕内優勝後も長きに渡って大関の座を務めた琴欧洲ですが、平成25年(2013)9月場所では負傷のために途中休場し4勝3敗8休という成績に。

カド番で迎えた翌場所も3日目の松鳳山戦で左肩を痛めて4日目から休場、これにより2場所連続負け越しとなり約8年47場所務めた大関の座から陥落してしまいました。

関脇で迎えた翌場所は「大関返り咲き」をかけた場所でしたが、8勝7敗と大関復帰の条件である10勝以上には届届きませんでした。

そして大関陥落から2場所目となる平成26年(2014)3月場所では初日の白星以降9連敗を喫し、1勝9敗で迎えた11日目を休場、翌3月20日に引退を表明することになります。

年寄・琴欧洲から鳴戸の名跡を取得

引退直前である平成26年1月に日本へと帰化し安藤カロヤンとなっていた琴欧洲は、まだ年寄名跡を取得していませんでしたが、大関経験力士に与えられる特権により3年の期限付きで年寄・琴欧洲を名乗ることになります。

そして平成27年(2015)2月12日に鳴戸の名跡を襲名、平成29年(2017)4月1日に鳴戸部屋を興して現在に至ります。

鳴戸部屋の概要

鳴戸部屋の概要をいくつかピックアップしてみましょう。

鳴戸部屋の四股名

まだ本名で土俵に上がっている力士もいますが、基本的には虎来欧や欧翔山のように親方の現役時の四股名から「欧」の字を用いる方針のようです。

番付が上がってくれば、更に「欧」の字を見かけることが多くなりそうですね。

鳴戸部屋の住所と宿舎

部屋の所在地:東京都墨田区向島1丁目22−16
鳴戸部屋(地図)

名古屋場所宿舎:愛知県名古屋市緑区鳴海町横吹40-1
H&Nヘルパーステーション鳴海内(地図)

九州場所宿舎:佐賀県唐津市浜玉町浜崎1669−31
唐津市西区公民館(地図)

過去6場所の力士構成と勝敗数

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