大相撲用語解説。今回は「月給制」と、その前身となった「歩方(ぶかた)」について解説します。
十両以上の関取に毎月支給される「月給」。当たり前のように思えるこの固定給システムは、実は昭和32年(1957年)に導入された比較的新しい制度です。それ以前の力士たちはどのように収入を得ていたのでしょうか。江戸時代から続く興行収入分配システム「歩方」の歴史から、月給制誕生のドラマまで分かりやすく紐解きます。
この記事の目次
大相撲の「月給制」とは
大相撲における「月給制」とは、日本相撲協会が十枚目(十両)以上の関取や年寄、行司などの協会員に対して、毎月決まった固定給(基本給および諸手当)を支給する制度のことです。
現在の大相撲において、関取の金銭的待遇は「毎月の月給」と、本場所(年6回)ごとに成績に応じて支給される「力士褒賞金」の二本立てによって構成されています。
しかし、この安定した月給制が導入されたのは昭和32年(1957年)5月場所のことであり、それ以前の長い大相撲の歴史において、力士には毎月の固定給という概念そのものが存在しませんでした。
現在の力士の基本月給の金額や各種手当の全体像については、以下の解説記事をご覧ください。
月給制以前の収入システム「歩方(ぶかた)」とは
月給制が確立される以前、力士や年寄たちの主な収入源となっていたのが「歩方(ぶかた)」と呼ばれる興行収益の分配金でした。
歩方とは、本場所などの興行で得られた売上金を、番付の地位や役職に応じて配分する完全な歩合給・出来高払いのシステムです。興行が大入り満員になれば実入りが増え、逆に不入りや赤字になれば収入が激減するという、極めて不安定な興行師の世界の仕組みでした。
江戸時代:大名のお抱えと会所の残金分配
江戸時代の力士たちの生活は、大きく「大名のお抱え」と「本場所の興行収入」に分かれていました。
有力な藩の大名にお抱え力士として召し抱えられた者は、藩から家臣並みの待遇を受け、平均して「五人扶持(支給高:年間25石の御家人の切米に相当)」程度が支給されて生活が保障されていました。
この「五人扶持」とは、1日あたり5人分の食糧として年間25俵(1俵約60㎏、玄米で約1,500kg/1.5トン)の米が支給される身分です。一家数人が1年間に食べる主食を十分に賄える安定した現物給与であり、下級武士(御家人)に匹敵する手厚い生活保障でした。
一方、大相撲の興行を取り仕切る江戸相撲会所(現在の相撲協会の前身)における分配は非常に大まかなものでした。会所の主催者が興行の総売上金から自分たちの取り分を差し引いた後、残った残金を力士たちに分配していました。もし興行が赤字になった場合は、上の者(大関などの上位力士)が私財でその赤字を補填するという過酷な運用実態もありました。
明治初期:高砂浦五郎の改革と給金の明文化
明治維新を迎えると大名の後ろ盾がなくなり、力士たちの生活困窮や会所上層部への不満が噴出します。
明治6年(1873年)、高砂浦五郎(初代高砂親方)が相撲界の旧態依然とした待遇制度に反旗を翻し、抜本的な処遇改革を叫びました。この改革運動を経て、明治9年(1876年)2月に制定された「東京大角觝商会合規約」において、年寄および幕下十枚目以上の力士に対し、番付の地位に応じた給金を支給することが初めて規約として明記されました。
大正時代:売上の1割から配分した「歩方金」
大正時代に入ると、歩方の配分計算はより細かくルール化されていきました。
当時の制度では、本場所の総売上金の1割(10%)のうち、3分(3%)を将来の退職金に代わる「養老金」として相撲協会に積み立て、残る7分(7%)を十枚目以上の関取に「歩方金(ぶかたきん)」として分配していました。
この時代の関取の収入は、土俵の成績によって積み立てられる「持ち給金」と、この「歩方金」を合算して受け取る形となっていました。しかし、依然として興行の売上成績に左右されるため、力士たちが安心して相撲に専念できる生活環境とは言えませんでした。
土俵の実績によって加算される「持ち給金」の仕組みについては、以下の記事で詳しく解説しています。
昭和32年(1957年)5月:悲願の「月給制」導入と歩方の廃止
昭和の高度経済成長期を迎えるなか、相撲協会の内部からも「日々の生活の基盤を確実に安定させたい」「毎月決まった固定給を収入として受け取りたい」という力士や関係者の切実な要望が日増しに高まっていきました。
歴史的な給与体系改革の断行
こうした声を受け、日本相撲協会は昭和32年(1957年)5月場所より抜本的な給与体系改革を断行し、ついに大相撲史上初となる「月給制」がスタートしました。
この月給制の導入に伴い、江戸時代から連綿と続いてきた伝統的な興行分配金である「歩方」は完全に廃止されることとなりました。
導入当初の制度設計
昭和32年にスタートした月給制は、職種や地位によって以下のように設計されていました。
- 年寄・力士(関取)・行司・事務職員:「固定給手当制」が導入され、毎月の月給が支給されることになりました。年寄には職務手当や常勤手当が加算され、力士と行司には毎月の基本月給に加えて本場所ごとの手当(力士褒賞金等)が支給されました。
- 若者頭・世話人・呼出・床山:導入当初は毎月の月給ではなく、本場所(当時は年数回)ごとに支給される固定給の形態が取られました(※その後の制度改定により、現在は全員が基本給と手当からなる月給制へと移行しています)。
この改革によって、力士たちは本場所の動員数や不入りを心配することなく、毎月安定した給料を受け取りながら土俵の稽古に打ち込める近代的なプロスポーツ組織としての基盤が確立されたのです。
「関取」と「力士養成員」を隔てる決定的な境界線
昭和32年に導入された月給制ですが、力士全員に毎月の月給が支給されるわけではありません。
大相撲の厳格なピラミッド社会において、日本相撲協会から月給が支給されるのは「十両以上の関取」だけです。幕下、三段目、序二段、序ノ口の力士養成員(取的)には、現在も毎月の月給は一切支給されません。
力士養成員の収入は、本場所ごとに支給される「力士養成員場所手当(幕下は1場所16万5,000円、三段目は11万円など)」と、勝星に応じた「幕下以下奨励金」に限られています。
「十両に昇進して関取になる」ということが相撲界で人生の大きな転機とされる最大の理由は、この昭和32年に確立された「毎月安定した月給がもらえる身分になる」という絶大な経済的権利を獲得できるからに他なりません。
幕下力士と関取の待遇格差については、以下の解説記事で詳しく紹介しています。
「月給制と歩方」のまとめ
大相撲の「月給制」は、昭和32年(1957年)5月に導入された大相撲の近代化を象徴する重要な給与システムです。
江戸時代の会所による大まかな残金分配や、大正時代の売上分配(歩方金)といった不安定な「歩方」の時代を乗り越え、力士たちの生活基盤を守るために生まれた月給制。毎月支給される基本給と、土俵の実績で積み上げる力士褒賞金という二重のシステムを知ることで、十両昇進を懸けて土俵に上がる力士たちの執念と、大相撲の歴史の重みをより深く実感できるはずです。
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